【38】千葉雅也「動きすぎてはいけない」ゼミ第16回 # 千葉雅也「動きすぎてはいけない」ゼミ 第16回 ## 2025年6月14日 大谷隆 ## 範囲 第1章 生成変化の原理 1-4 出来事と身体をパフォームする 90ページ1行目から93ページ最終行まで ## 特権と脱特権 > モル状の犬とは、粗大に定義された犬のステレオタイプのことである。反対に、分子状の犬は、犬らしさを成り立たせる関係=述語の束が限定されておらず、オープンになっている状態である。[90] モル状の犬は犬を「代表する」要素をもっている犬。分子状の犬は、犬を代表するような特権的な要素はなく、述語の束の組み合わせで犬らしさを成り立たせる。この特権性と脱特権性について、千葉さんはこの節で追いかけている。 ロバート・デ・ニーロのカニのような歩き方について。 > デ・ニーロは「モル状」のカニになっているのではないのである。カニへの生成変化は、知覚し得ない作動をしている。デ・ニーロは、カニになる途中で、カニの分身としてのビックルの特異なふるまいを得たのだ、と解釈されれるべきところである。 以上を、工夫された演技**でしかないとは考えない**ことが、必要なのである。[91] 傍点が「でしかないとは考えない」という二重否定表現についている。傍点で強調する意味は何か。この強調部分に対応するのは、次のページ。 > モノ(res)であるデ・ニーロの身体は、目立って変わっていない。「犬になる」「カニになる」といった生成変化は、私たちのこの身体によって行われる「非物体的incorporel」なパフォーマンス、という意味での「出来事」、コトであると、**そうでしかない**と思われやすいだろう。[92] 「**そうでしかない**と思われやすいだろう」というかなり微妙な言い回しの「そうでしかない」が強調されている。 千葉さんが対置しているのはこの二つ。「そうでしかない」ではなく、「でしかないとは考えない」。この「そうでしかない」という縛りの強い表現は「そうである」ことが特権的に扱われている。その特権を免れる表現として「でしかないとは考えない」という二重否定になっている。後者をもし、単純に「そうではない」という表現にしてしまうと意味が変わってしまう。これだと着眼点が「そう」か「そうでないか」になってしまい、脱特権という着眼ができなくなる。 あくまでも、「でしか」という特権性を攻撃し、そこから離脱するための「でしかないとは考えない」。演技なのかそうではないのかに着眼しているのではなく、演技でしかないとは考えない。このへんがとても千葉さんらしくて、面白い。 ## 二次的ではないからといって一次的でもなく、一次も二次もない この面白いところをさらにもう少し詳しく言語的にしつこくやってくれる。 > 「物体的corporel」な現実に立脚し、出来事、コトの「非物体的incorporel」な領野を、モノに対して二次的と考えると、生成変化の勧めは二次的なパフォーマンスの勧めになってしまう。しかし重要なのは、生成変化の「パフォーマティビティ」の理解を「実在化」することである。[92] いったんここで切る。「物体的corporel」に対して「非物体的incorporel」を二次的と考える、というのは、実はすでに言語的にそうなってしまっている。「非in」という接頭語がついている時点で。「非物体的incorporel」は「物体的corporel」という言葉があって初めて成立できる言葉なので、そもそも二次的なものだから。物体corpusが一次的で、非物体(=この場合は「こと(出来事)」)が二次的という、「物(一次)」と「事(二次)」の間の優劣があるということになっている。 しかし、 > 元来ラテン語のresは、「物体corpus」のみならず、諸物体から生じる効果=結果としての「出来事eventum」をも意味していた。ラテン語のレースとは、モノとコト、「ものごと」ないし「事物」である(hting,chose)。[92] 「物体corporel」対「非物体incorporel」と対置させて、二次的な劣位側の右項に「出来事」を代入するのではなくて、「物体corpus」と「出来事eventum」という、別の方向性をもった言葉を「ものごと」「事物」として並列に扱っている。resはその並列をそもそも内包していた。だから、resは「物体と出来事」「物事」「事物」であり、左右どちらの項も特権を有していない。 ここで、節タイトルの「出来事と身体をパフォームする」に戻ると、「物体」を意味する「corpus」は、身体という訳もある。ちなみに、この場合は「精神」と対立する。この節タイトルは、「物」に対して「事(出来事)」を二次的と捉えるのではなく、「身体corpus」と「出来事eventum」を脱特権的に併置して「パフォームする」ということになる。 「パフォームする」というカタカナ語が使われていることにも意味があるだろうけれど、一応語源を調べると、 > 「perform」の語源は、ラテン語の「per-」(完全に)と「formare」(形作る)が組み合わさったものである。[Weblio辞書] というのが出てくる。この「完全に形作る」に「演じる」を重ねて「パフォームする」というニュアンスを出しているかもしれない。必ずしも表面的にそう見せるという意味での「演技する」だけではない、「実在的な」変化。千葉さん的な言い回しでは、次のように鳴る。 > 当座の身体によって発揮されるパフォーマティビティと、身体を再構成して**演じ**=**化肉**されるパフォーマティビティを峻別することはできない。[93] 前者のパフォーマティビティが表面的な「演技」で、後者が「完全に形作」ってしまうような変質を伴う即物的なパフォーマティビティで、それらを二分化できない。そして、どちらかを特権化したり、優劣をつけたりすることも、おそらくしない。 ## 二重否定のいい加減さ ウィキペディアの「二重否定」の項目。 > 現在各国の標準英語でも上記の見解が踏襲されており、否定語を二回使用することは肯定であるとされている。ただし、正確にどのような「肯定」の意味になるのかは不明である。I don't know nothing. の場合、「知らないものはなにもない=I know everything. 」の意味であるとも言うし、「何も知らないというわけではない=I know something.」の意味であるとも言う。 上記の見解とは、 > 18世紀にきわめて人工的・作為的性質の強い規範文法が整備された際、否定呼応という言語現象に無理解な学者たちは、論理学規範を言語という特殊条件を考慮せずに適応し、「否定語を2回使うということは否定の否定を意味し、論理的に肯定である」と主張し、英語の否定呼応を抹殺した。 必ずしも「否定の否定は肯定(マイナス✕マイナス)」と捉えられないのが二重否定で、そのような場合もあるが、必ずしもそうだとは限らず、「否定の強調(マイナス+マイナス)」という場合もあるらしい。 日本語口語で「したくないわけではない」は、「つまりは、したい」という場合と「したいわけでもしたくないわけでもない中立」だったり、「そのトピックにそもそも関心が薄くどちらとも言いかねる」みたいな場合もあるように思う 二重否定、なかなか「いい加減」。 以上 Share: