【38】千葉雅也「動きすぎてはいけない」ゼミ第15回 # 千葉雅也「動きすぎてはいけない」ゼミ 第15回 ## 2025年5月24日 大谷隆 ## 範囲 第1章 生成変化の原理 1-3 生成変化論のレトリック(2)ーー微粒子の関係 86ページ15行目から89ページ最終行まで ## 前節とは別の仕方で説明する 「模倣」でも「同一化」でもないという生成変化、それがどのようなものなのかを説得的に語っている(レトリック)続き。何にでもなることができる「区別のない万物斉同」の大文字Xになることではなく、「未規定な〈xへの生成変化〉」、「知覚し得ぬものへの生成変化」。女性への生成変化は、未規定なx、y、z・・・といった具体的な複数の何かへの変化であり、単一の「女性」概念への変化ではない。こういった前節の説明を別のやり方で説明しようとしている。 ## 区別のある匿名者、微粒子 > 区別のある匿名者について、先ほど「微粒子」という表現をしておいた。 生成変化において、事物の区別は破棄されない(万物斉同ではない)。それには二つのレベルがある。 ### レベル1 個々の事物の差異「個体性」 あの犬、この犬、うちの犬・・・といった、犬の中での個体の区別は破棄されない。万物斉同では、この差異も破棄されて「人類補完計画」的になるが、生成変化では区別が破棄されない。 ### レベル2 個体を構成している「微粒子」たちの区別 あの犬、この私、といった個体の中に入っていったときに、その個体を構成している「成分」がいろいろとある。その区別も破棄されない。 ## 微粒子の二つのレベルをイメージした生成変化の様子 この二つのレベルの区別をもった状態で、「女性になる」「イソギンチャクになる」とはどういうことになるのか。 まず、女性になるというときに、「女性」と名付けられた単一の共通概念に含有される(カテゴライズされる)わけではなく、女性A、女性B、女性C・・・といった個体が区別された「女性たち」の列に、女性Xとして新しく加わることである。この「女性X」という具体的な個体は、「なる」前は、誰にも知られていない(未規定)な存在。 次に、どうやって、その女性xになるのかというと、自身の構成成分である「微粒子群」の諸関係を「今なろうとしてるもの」の「微粒子群」の諸関係に「近く」なるようにする。こうやって、自分を構成する微粒子群の在り方の関係を、なろうとしているものの微粒子群の関係に近くすることで生成変化する。 イメージしやすくなったが、次に進むともっとイメージしやすい。 ## 述語の束としての「主体?」 今書いた微粒子の説明(レトリック)を、さらに別のやり方で書き直す。 「この私」というものはどういうものか、私という主体はどのようなものか、という問いを立ててみて、その説明の仕方の一つとして、以下のようなやり方を試みることができる。 - 私は、日本で生まれた。 - 私は、コーヒー好き。 ‐ 私は、今朝寝坊した。 - 私は、坊主頭である。 - 私は・・・ このいくらでも増やせる記述の、共通の主語「私は、」が「この私」(主体)だという言い方が一般的だろうが、一方で、主語以外の部分である「述語」、つまり、 - 日本で生まれた。 - コーヒー好き。 ‐ 今朝寝坊した。 - 坊主頭である。 - ・・・ この複数の述語を「束ねた」ものが「この私」(主体)だ、と言うこともできる。主語の「私」ではなく。 その上で、述語の束としての「この私」が「女性に生成変化」するとしたら、どういうふうにやるのか。上記の述語の束の部分を「女性」の述語の束に近づける。しかも、「この私」が「なろうとしている女性」は、まだ「未規定」な、どこにもいない具体的な「女性x」なので、「この私が今なろうとしている、まだどこにもいない女性x」を構成する述語の束に近づける。こうやると、「この私は女性になる」ことになる。 ここではさらに、文章における主語の特権性も揺さぶられている。主語があったりなかったり、というか、多くの場合は無い日本語ならばそんなもんかと思うが、西洋語の文章にとって、これは重大な揺さぶりかもしれない。 以上 Share: