【36】メルロ・ポンティ「知覚の現象学」ゼミ 第33、34回 # メルロ・ポンティ「知覚の現象学」ゼミ 第33,34回 2025年3月6日 大谷隆 ## 範囲 第二部 知覚された世界 〔身体の理論はすでに知覚の理論である〕 Ⅰ 感覚すること 〔知覚の主体とはどういうものか〕 〔感覚作用と振舞との関係、実存の様式の具象化としての性質、共存としての感覚作用〕 〔感覚的なものに捉えられた意識〕 ## 更新される語彙 今回の範囲では、従来のいくつかの語彙が更新されていく面白さがあったので、その観点でレジュメをまとめた。 ## 〔身体の理論はすでに知覚の理論である〕 メルロ=ポンティの主張では、自己の身体と世界とは、一つのシステムを構成している。世界が自己の身体と無関係に客観的に無人称的に存在しているわけではなく、自己の身体によって、世界を「内から活気づけ、養っている」。 ### 想定される反論 もし世界がメルロ=ポンティの言うようなものだとしたら、対象は経験されたものでしかないことになる。例えば立方体はどのようなものか? 立方体は6つの等しい正方形を持っているはずだが、経験上は、6つの面を同時に同じ正方形として観ることはできない。だとしたら「立方体」と我々が言っているものは一体何なのか。客観的であるという前提を持った「対象」というもの自体が成立していないではないか。 ### メルロ=ポンティの再反論 しかし、対象というものを、実際にどう見えるかということと完全に分離することはできない。その関係は、立方体がどういう形に見えるか?ということではなく、どのように思惟において思い描くものを立方体としているのか、ということなのだ。 > 等しい六つの面をもった立方体とは、私の眼前に、私の手もとに、知覚の明証性において存するところの立方体のなまなましい現前を、私がそれによっていい表す極限観念なのである。[335] 立方体というものは、あたかもそのようなものが目の前に、手で触れているかのように、思い描くことができる、その形のことである。私の目で見ることや手で触れることと思い描くこととの連携によって、立方体として知ることができるのだ。 ## 〔知覚の主体とはどういうものか〕 主体とはどういうものか。 経験主義的な知覚のモデルは、 - 世界=客観的に無人称的に存在する対象のすべて - 自己の身体=世界の対象から刺激を受ける対象 - 経験的自我=刺激を受けた主体 で構成されている。このモデル全体を経験主義者は観察者として記述することになる。また、主知主義的なモデルは、その観察者を思惟する者として、超越論的自我の持ち主すなわち主体とする。 ここで疑問が生じる。なぜ、我々は「自己の身体」を持っていると知覚するのか。なぜ、超越論的自我が観ているはずのものを、「自分の目(自己の身体)」で見ていると信じるのか。なぜ世界のすべてを一度に見ることができず(超越論的自我には見えるはず)、少しずつしか知ることができないのか。 われわれは、経験主義的な「自己の身体」を持つ「経験的自我」でありつつ、主知主義的な「超越論的自我」にも立つことができる。前者を即時存在、後者を対自存在と言い換えることもできる。いずれにせよ、どちらかの自我にのみ立っているわけではなく、そのような二者択一では捉えることができないのが「私」である。 例えば、「私が赤い光を見た」というとき、この「私」は「赤」という色彩の感覚をもった主体だと言える。しかし、この文中の「私」とそれを思惟し書いている私とは別物で、むしろ文中の「私」は、執筆者の私にとって「対象」である。執筆者の私は、文章に対し超越論的自我の立場にあるが、だとすると、私は「私」の経験を知覚しているわけではない(赤い光を見ているわけではない)。 しかし、素直に考えて、執筆者である私は、自分の身体(目)の経験として赤い光をみたことがあったり、赤い光を見るという経験を自分の経験として想定することができるから、文章として「私は赤い光を見た」と書くことができる。経験的自我であることも可能でありつつ、その自分の経験を超越的立場から見て書くこともできる。 これがメルロ=ポンティの言う知覚の全体像である。そして、知覚する主体とは、このような両義的な主体である。 ## 〔感覚作用と振舞との関係、実存の様式の具象化としての性質、共存としての感覚作用〕 諸論において古典主義的な意味での「感覚」「性質」はいったん否定された(28-34ページあたり)。ここで改めて、経験主義的や主知主義が依拠する「感覚」や「性質」ではなく、現象学的に感覚や性質を見直してみる。 まず、性質ーー例えば赤、青、黄、緑などーーは、人間の感じ取る以前から客観的に説明される(例えば光の波長域や感覚器官の受容などで)ものではなく、「人間の振舞のなかにさしはさまれている」。赤とか青とかの感覚刺激と人間の運動機能にはある連絡がある。 > 客観的な光景となるに先だって、性質はその本質をめざすある型の行動によって認知されるのであり、したがって私の身体が青にふさわしい態度をとるやいなや、私は青の準ー現前を獲得するのである。それゆえ、いかにして、またなぜ、赤は努力ないし激昂を意味し、緑は安らぎと平和を意味するのかと問うてはならないのだ。われわれの身体が体験するがままに、つまり平和もしくは激昂の具象化として、これらの色彩を体験することを学び直さなくてはならないのである。[346] 例えば平和や安らぎの雰囲気を自己の身体が体験することが、緑という色彩を体験することになる。 > 感覚の主体は一つの性質を記録する思惟者でもなければ、この性質に触発されたり受容されたりする無活動な媒質でもない。それはある実存環境のうちに、これと共に生まれ、あるいはこれと同調するところの、一つの能力なのである。[346] 感覚の主体とは、ある性質と共存する能力のこと。 > 感覚とは文字通り〈共にすること〉なのである。[347] いったん否定された「感覚」と「性質」は、両者が独立したものとして定義されていた。「赤」という「性質」は、「感覚」する主体とは無関係だった。しかし、メルロ=ポンティの主張は「感覚は性質と共存する」。性質と感覚が共存する、その能力に当たるものが主体である。 主体subject、感覚、性質という語彙が現象学的に更新されている。 ## 〔感覚的なものに捉えられた意識〕 まず、もう一つ更新しなくてはならない語彙として「対象object」がある。 > 対象は、可能的なさまざまな経験の開いた連鎖を貫いて同一視さるべき存在としてのみ規定されるのであり、このような同一化をおこなう主観にとってしか存在しない。[348] 性質と共存する感覚の持ち主としての主体が、例えば机を見る。机は、机が持つ性質を共存する感覚によって「机」というものになるが、この「机」は瞬間ごとに異なる外観をしたり、手触りをしたり、色彩をしたりすることを否定できない。そこで、どの瞬間をも貫いて同じ「机」だとみなす主体にとって、この「机」は対象となる。 経験主義や主知主義が定義する「対象」は、人間とは無関係な客観的に存在し続ける「物体」だったが、現象学的には、知覚する主体が同一化した物のことを対象と言う。 いったん目で見たペンが、本の後ろに隠れ、再び現れたとき、それを同じものだとする意識作用が対象という普遍性を作り出している。この作り出された普遍的対象を経験主義や主知主義は前提として扱っている。また、たとえ本の後ろに隠れ、見えていないときも、ペンは存在する。これが現象学的な存在である。 ということが書かれているのではないかと思うのだが、348ページ半ば辺りからの議論の詳細が込み入っていて追いきれない(時間切れ)。 節の見出し〔感覚的なものに捉えられた意識〕の意味は、「意識」というのは主知主義の言う超越的立場のことではなく、実存的な「感覚する主体」に巻き込まれるようなものだということではないか。見えなくなったペンも存在している、と思惟しているその意識のことで、この意識は、性質と共存する感覚に引きずられ並走せざるを得ない。 以上 Share: