【38】千葉雅也「動きすぎてはいけない」ゼミ第14回 # 千葉雅也「動きすぎてはいけない」ゼミ 第14回 ## 2025年4月12日 大谷隆 ## 範囲 第1章 生成変化の原理 1-2 生成変化論のレトリック(1)ーー区別のある匿名性 82ページ5行目から86ページ14行目まで ## 同一性 > 女性への生成変化は、女性としての何らかの同一性から逃走することであり、不明瞭なxに生成変化することを意味しているのである。[82] ここでいう同一性とは、例えばこういうことだろうか。「これこれであれば女性である」といえる女性全体に共通するある特性があり、それを備えていることによって「女性である」とする、といった観方。この「女性=これこれ」というような女性と等号で結べるような関係を指しているということだろうか。 ドゥルーズが攻撃するのは、このような同一性のこと。 だとすると、女性において、すべての女性に共通する普遍的な「同一性」はなくて、Aさん、Bさん、Cさん・・という具体的な女性たちが、それぞれ別々に「女性になる」というようなことだろうか。もし私が「女性への生成変化」、つまり「女性になる」のだとすれば、この女性たちの列に、xさんという未知の具体的な存在として加わることになる。 この話を聞いて保坂和志さんの小説観を思い出す。保坂さんはたぶんこういうことを言っていると思う。小説というものは、これこれこういう要素が入っていればそれは小説であるといった何かがあるわけではない。もちろん、すでに小説である既存の文章を一字一句模倣して書いたとしても、それは小説ではない(小説を書いたとは言えない)。小説を書くということは、未知の文章を書くことで小説が誕生してしまう、そういう行為のことを「小説を書く」と言う。 ## パラドクス 女性への生成変化は、それを持ってさえいれば自動的にそれであるような「資格」のようなものではない。 > 特定の事物Nへの生成変化は、その名辞「N」を、 > (a)消去=匿名化しながら、同時に > (b)反復し、維持する。 資格のようなもの、規範的な、ルール付けによって定義されるようなものを放棄している。どんな名辞も「何をもってそれであるのか」ということが確定的には言えない。そうだからこそ、やろうと思えばどんなNにでもなることができる。資格や条件は問わない。 では、どうやって「Nになる」のかというと、個別的にそれぞれにおいてNであるようにする。しかし、これは不安定だから反復することで維持する、ということだろうか。 ## 微粒子 ここで気をつけなくてはいけないのは、どんなものにでもなれるということを、何かの万能性としては見ないこと。万能なXに到達すれば何にでもなれる、というわけではない。このX、なんの名辞にもなれる匿名性は「万物斉同の匿名性」である。ここでいう「区別のある匿名性」とは、千葉さんは峻別する。 単一のXへの収斂は「一元論」の極である。「区別のある匿名性」は、「互いに区別されること以上の本性を持たない「微粒子」のような匿名性である。その微粒子とこの微粒子は区別できるが、それ以上に加えられる性質はないといった匿名性。「多元論」の極。 ## ドゥルーズへの評価の分岐点 千葉さんは、この二つの匿名性が、ドゥルーズの中で「癒着して見える」ことがドゥルーズの評価を分けているという。「万物斉同の匿名性」と「区別のある匿名性」が癒着しているからこそ、バディウは、前者の匿名性から「一元論の気配」を読み取り「ファシズム」への通じる可能性があると批判した。千葉さんは > これに対して私は、ドゥルーズ(&ガタリ)において実効的なのは〈区別のある匿名性〉であり、他方の〈万物斉同の匿名性〉は、**想定されるだけの理念**にすぎないが、**こちらを前景化しているように見える場面もある**、と考えているのである。[86] とする。 ## 壊しすぎない なにかに変化したいとき、それならいっそ、何にでもなれるXにまで到達してしまおう、という「行き着きたい、やり尽くしたい」という思想は、〈万物斉同〉の境地、ある一点を目指す修行のようなものになる。 一方で区別のある匿名性は、そこまで「行き着いて」いない。粒感が残っている。具体的に区別可能なあれやこれが残っている。抽象的な一点を目指すのではなく、具体的な複数性がある。 > 「女性になる」「犬になる」といった具体性を、壊しすぎないように壊そうとしている。それが、まさしく「動きすぎないこと」であり、オーバードーズを回避してのトリップである。[86] なので、力の「加/減」が難しい。 千葉さんやドゥルーズが言わんとしていることが、意外に厳密というか、具体的な状態の話だということがわかる。ぼんやりとしたふんわりとした抽象論ではなく、あぁそれのことか、そういうちがいか、とわかる。 それを極めれば何でもできるといった強く優れた万能性ではなく、個別的で限定的な可能性を見ている。これは芸術や表現の領域で意識される具体性や複数性を思い出す。具体的に人々の言動に埋め込まれている癖や傾向が思い浮かぶ。「ものすごく絵が上手くなればどんな傑作でも描ける」「作家は文章がとても上手いからどんな話でもかける」といった誤解もまさに万物斉同の境地を目指す運動から発生している。 以上 Share: