【38】千葉雅也「動きすぎてはいけない」ゼミ第13回 # 千葉雅也「動きすぎてはいけない」ゼミ 第13回 ## 2025年3月15日 大谷隆 ## 範囲 第1章 生成変化の原理 1-1 物化と生成変化ーー万物斉同に抗する区別 78ページ1行目から82ページ4行目まで ## 中島隆博すごい 中国の古典と西洋現代思想の両方に精通しているというだけで驚きだが、もう少し調べてみるとさらにすごい。中島は、有名な胡蝶の夢のエピソードの「物化」を「万物斉同」に結びつける通説的解釈を「きっぱり斥ける」。 ウィキペディアの「万物斉同」は、 > 万物斉同とは荘子が唱えた、万物は道の観点からみれば等価であるという思想である。 とあり、また、荘子は老子と並び「道教の始祖の一人とされる人物である(ウィキペディア)」。 つまり「万物斉同」は、荘子の思想の根幹に位置する思想であり、その一般的な解釈を変更するということは、かなり大胆な「荘子」像、道教解釈の変更になる可能性があると思われる。「胡蝶の夢」のエピソード自体も荘子を代表するものでウィキペディアでもこれ一つが特別に抜き出されているほどだ。その解釈を変更すること自体、重大なことだと言える。 胡蝶の夢はこういう話だ。 > かつて荘周が夢を見て蝶となった。ヒラヒラと飛び、蝶であった。自ら楽しんで、心ゆくものであった。荘周であるとはわからなかった。突然目覚めると、ハッとして荘周であった。荘周が夢を見て蝶となったのか。蝶が夢を見て荘周となったのかわからない。荘周と蝶とは必ず区別があるはずである。だから、これを物化というのである。[79] 中島はこのエピソードから、通説とは異なる解釈を引き出す。 ## 個別性のある世界 胡蝶の夢の中島の解釈を少し分析して眺めてみる。 自分=荘周の世界A 自分=蝶の世界B この2つの世界がある。夢を媒介にして、AとBを行き来するエピソードである。 世界Aにあるとき、自分は荘周であって、荘周であるばかりである。他の立場に無関心であり、そもそも他の立場に「なる」ということを予想すらしない。 世界Bにあるとき、自分は蝶であって、蝶であるばかりである。他の立場に無関心であり、そもそも他の立場に「なる」ということを予想すらしない。 世界Aにいるときも、世界Bにいるときも、自分は自分であり自分以外ではありえないし、自分を取り巻く世界はそういうものであって、それ以外の世界はありえない。つまり、世界Aの存在である荘周は、世界Bを、また逆に世界Bの胡蝶は世界A「予想すらしない」。自己充足的。 それが、移行してしまう。 通説的な解釈は、世界Aと世界Bを包含するようなより「大きな世界」を想定する。この世界は、行き着くところ、世界A、B、c・・・のすべてを包括する、たった一つの巨大な共通世界を目指す。この共通世界を後ろから支えているのが「道」という万物を統べる法則のようなものだということになる。中島はこれに「反ファシズムの名のもとに全世界が連帯する」という存在論的ファシズムを見て、抵抗を試みる。 中島の解釈では、世界Aと世界Bとを行き来することによって、単に異なる世界を行き来するというだけでなく、それまで世界Aとしてしか存在しなかった「わたし」が別の存在として別の世界に居ることがあり得るような「新たな世界」を想定する。 > 「(……)ここで構想されているのは、一方で、荘周が荘周として、蝶が蝶として、それぞれの区分された世界とその現在において、**絶対的に**自己充足的に存在し、他の立場に無関心でありながら、他方で、その性が変化し、他なるものに化し、**その世界そのものが変容する**という事態である」。そして、「胡蝶の夢は、荘周が胡蝶という他なる物に変化したということ以上に、それまで予想だにしなかった、胡蝶としてわたしが存在する世界が現出し、その新たな世界をまるごと享受するという意味になる。それは、なにか「真実在」なる「道」の高みに上り、万物の区別を無みする意味での「物化」という変化を楽しむということではない」。[80] 世界Aも世界Bも言ってみれば「同じタイプ」の世界であり、その主人公が違っているだけだ。しかし、ここで新しく現出する「胡蝶としてわたしが存在する世界」は、同じ世界という言葉を使っているが、世界Aや世界Bの世界とは異なる意味を持っている。言ってみれば「世界'」とでもいうべきもので、その特徴は、私が私でありつつ、別のなにかとしても存在する、ことだ。旧来の「世界」では、どれほど「高みに上り」包含物を増やして視界を拡大しても、「世界から世界への〈絶対的忘却〉による移転」[81]はありえない。 世界が違う、というよりも、世界というものが意味しているものが違っている。すべてが起こり得る理想的な世界を志向しているのではなく、現にある有限な存在同士で、移転する世界、移転したところで、「わたし」の視点が無限の高みへと登るわけではなく、単に別の他者の有限な視界を持つということであるが、そんなふうに世界というもの自体の変化の可能性を示しているところに、通説的な世界観を更新してしまう力がある。 中島の視界すごい。 以上 Share: