千葉雅也「動きすぎてはいけない」ゼミ 第12回
2025年2月22日 大谷隆
範囲
序ーー切断論
0-7 セルフエンジョイメント
71ページ6行目から76ページ終わりまで
冗談つながり
アガンベンによるドゥルーズへの追悼文から。ドゥルーズとハイデガーを比べて、彼らの「根源的な音色」の違い。アガンベンによれば二人の間には「或る深淵」が横たわる。
アガンベンによれば二人はいずれも「事実性」から出発する哲学者であった。[72]
事実性「から」出発するが、その後の方向感が異なる。
彼(ドゥルーズ)は、記憶だけに頼って自由に引用しながら言ったのである。[72]
「観想をめぐるプロティノスの理論について」それを調べて正しく引用するのではなく、「自由」だけど間違っている可能性があるような方法でしゃべる。
どんな存在も観想なのです。そうなのです。(略)(人間と犬は除いて、と彼は付け加えた。略)私が冗談を言っているのだ、これは冗談だと、みなさんは言うでしょう。そうです。[72]
では、その元ネタのプロティノスは、どんなことをどのように言っていたのか。
プロティノスはこのことを冗談のように語り始め、「観想することを欲するから、人は冗談を言うのだ」と説明する。[73]
つまり、ドゥルーズは、プロティノスの「冗談のように語る」ということをも引き継いで、冗談のように「冗談」について喋っている。
この二重の冗談つながりを受けたアガンベンはどうしたのかというと、
ところで、「人間と犬を除いて」という刺激的なフレーズは、残念ながらというべきか、アガンベンの演出であるらしい。[73]
アガンベンもドゥルーズの言葉を、正しく引用するのではなくて、面白くするために演出している。ドゥルーズの死への追悼文で冗談をやっている。
もしこれを冗談ではなく、正しく「記録を探る」とどういうことが出てくるかというと、
ドゥルーズが「観想的でない」と貶めたのは、「猫や犬」など「最低位の動物」、そしてあらゆる人間ではなく「地獄に堕ちた連中」なのであった。「猫や犬はわずかの喜びしか知りません。痛ましい動物たちです。まったく何も観想していないのです」。だからこそ「地獄に堕ちた連中たちはみんな、猫だの犬だのを連れているわけです」[74]
という何とも侮蔑的な、とても笑えない話が出てくる。千葉はこの笑えない、とても冗談として成立しない殺伐とした展開をどう受けるのかというと、直後に
観想なる力は、ひどく衰えてしまうことがある。「地獄に堕ちる」というのは「疲労」の果てのことであろう。[74]
とつなぐ。
この部分、僕にはこう読める。千葉は、ドゥルーズが「笑えない発言」をしてしまっている、その様を「観想なる力」の「衰え」として逆指摘する。ドゥルーズは疲れてしまって地獄に堕ちてしまった連中のような言葉を発しているのだ、と。さらに追い討ちとして、
『差異と反復』において疲労は、「欠如」よりも受動的な、観想の、セルフエンジョイメントの不能であるとされる。[74]
と「ブーメラン」になっていることをキッチリ詰めてみせる。千葉は、でもそれってドゥルーズは自分で本で書いていることなんだよね、という皮肉を言っている。アガンベンが上手く冗談でかわしたドゥルーズの「冗談にならない」所を、敢えて「イジる」ことで、ドゥルーズを救ってみせている。これもお笑いの常套手段。
セルフエンジョイメント
アガンベンによれば、ハイデガーの「やり遂げるべき責務」に対して、ドゥルーズの「根源的な音色」は「英語でself-enjyoymentと呼んでいたあの感覚」にあった。
ざくっと検索すると「自己満足」という翻訳が出るが、もちろんそう単純に訳せないものだろう。日本語の自己満足には否定的なニュアンスが強くあるが、そうではないだろう。
冗談と結び付けられているけれど、他人を笑わせると言う面に重きがあるのではなくて、それが冗談である、冗談になり得るという自覚として宿っている面白さだろうか。
冗談を言うには、或る状況の内部に完全に埋没してしまっていては難しい。そこから半分浮き上がった状態で、その状況に在りつつも、そうではない、そこではないところにも居るという感じ。
これを観想と言っているのだろうか。
この喜びは、自分を、自分とは異なる「元素」たち、つまり他者たちのまとまりとして観ることであるからである。自分とは複数の他者が「縮約」された結果=効果なのである。[75]
自分で在りつつ、自分とは異なっている。注意点としては、
生成変化とは、自他を一緒くたにすることではない。[76]
自分で在りつつ、他者であるということは、自分=他者ではない。
セルフエンジョイメントは、自他の区別を伴っている。[76]
自他がくっついて、合一したり、全体化したりしない。
セルフエンジョイメントという英語の翻訳不可能性への奇妙なこだわりが、まさしく「全体化不可能な断片の世界」へのこだわりに対応しているのではないだろうか。
翻訳不可能性。ある言語のある言葉に、他の言語へ翻訳しきれない何かがある。イコールで結べない。その翻訳しきれなさが問題となることがある。何かになりつつも何かになりきれない、その成りきれなさが問題となるようなこと。
ロラン・バルト『表徴の帝国』で、〈なまの食物〉という言葉が取り出されている。日本語で「なまの食物」という場合とフランス語で言う場合、異なるニュアンスがある。フランス語でなまの食物(複数形)は、「献立表の外側の、多少タブー気味な、変則の食べものをいう」。通常食べ物に分類されない、なにか「生々しい」ニュアンスになるのだろう。日本語では、そのような食べ物「外」のニュアンスはなく、単に火の通っていない食物であったり、逆にむしろ新鮮さが強調された良い食材という印象すらある。言語の壁というのは、意味が伝わらないというレベルと、意味では伝わらないというレベルがある。
連想として。自分が編集者という職業に就いた場合、自分が編集者であることはそうだとしつつも、編集者というものと自分がイコールになるのとは違う感覚、自分が編集者を代表(represent)してしまうことへの違和感、編集者というラベルがついている集団の誰一人として同じ人がいない感覚、ああいうことだろうか。
面白さと観想
例えば芸術作品に触れて「面白い」と思えるとき、それまでの自分や自分が捉えてきた世界が、少しズレてしまったり、無意識に依存していた土台が揺らいで、今までそう思っていたものが実はそうではないのかもしれない、といった感覚になる。一つの剛体だと思っていたものに亀裂が入って複数のものの集まりだったと気づく感じだとすれば、ここでセルフエンジョイメントや観想という言葉で言わんとしていることが、あの「面白い」と思っている感覚なのかもしれない。
以上