メルロ・ポンティ「知覚の現象学」ゼミ 第32回
2025年1月31日 大谷隆
範囲
第Ⅰ部 身体
Ⅵ 表現としての身体と言葉
〔言語的身振り、自然的な記号も、また純粋に約束的な記号も存在しない〕
〔言語における超越性〕
〔失語症の現代的理論による検証〕
〔言語と世界とにおける表現の奇蹟〕
〔身体とデカルト的分析〕
〔言語的身振り、自然的な記号も、また純粋に約束的な記号も存在しない〕
第一部最終章。
しかし自然が与えないものを、この場合、文化が提供している。[309]
ここが面白かったし、なるほどと思えた。身振りが自然的な環境における記号だとすれば、言語は文化的な環境における記号と、いったん考えることができる。
自由に使える既成の諸意義が、すなわち以前の表現行為が、語りあうひとの間に共通の世界を打ち建てており、現在の新しい言葉は、身振りが感覚的世界に関係するように、この世界に関係するのである。[309]
「月が綺麗ですね」が、愛の告白になるのは、すでにその状況がそうあること(例えば夜道を二人で歩いている。その二人に恋愛感情が発生しうる関係性がある。など)に何らかの文化的な環境が整えられていて、その上で、言葉としての「月」や「綺麗」が関係する。それが十分に「好意の現れ」と受け止められうるだけの表出性を持っている。すでに文化的環境としての「世界」が打ち建てられていて、そこに新しい言葉が関係する。と同時に「世界」自体が変化して、二人の関係性が変化し言葉は「愛の告白」となる。
しかし、それでも「最初の言葉」はどうやって生まれたのか、という反論は残る。また、国語が多数あることも。
「語り始めて最初の人間」と第二の人間との間の言語要素の伝達は身振りによる伝達と全く別の型のものではなかったろうか。[308]
この問いが意味をなすのは、実は、身振りは「自然的記号」、言語は「約束的記号」と分けられているから。もしも言語を自然的記号とみなすことができれば、最初の言葉もジェスチャーと同様に、不可思議なものではない。ここで、メルロ=ポンティの反論は、「約束」というもの自体を問うことによってなされる。
しかし約束は遅れ馳せに人間の間に発生した関係様式であって、予備的な意思伝達を予想している。[310]
「約束」は、人間と人間との間の「人工的」な関係様式であり、「予備的な意思伝達」(文化的環境)を求める。例えば物理法則のような無限定な関係ではない。もしも、無限定な関係であれば、自由なシニフィアンとシニフィエの結びつきとして「恣意的」である。しかし、言語の何かを何かに結びつける約束事は完全には恣意的ではない。あらかじめ存在する文化的(そして幾分は自然的)環境がある。
ある国語における母音の優位とか別の国語における子音の優位とか、また文章構成と統辞法の諸体系など、これらは同じ思想をいい表すための任意の約束ではなくて、人間の身体が世界をほめ讃えるさまざまな仕方、結局、世界を生きるさまざまな仕方を、表しているということになるであろう。ここからして、ある国語の十全な意味は他の国語に決して翻訳できない、という結果が生じてこよう。[311]
ある国語を自分のものにするには「それがいい表す世界を引き受けねばならない」。
〔言語における超越性〕
言語が特別視される理由。他の表現とは異なり、言語だけに「特別な地位」があるかのように扱われる理由。
言葉はその努力の推定上の極限としての真理の観念を、われわれに植えつけるのである。[316]
「ロゴス」として、真理化、理想化された超越的なものを言語は「夢見させる」。言語は共通規範として、約束として、成立するかのように思われる。これには、あるモデルが採用されている。
まず、「言葉なき思惟(コギト)」というものがある。それを言葉に写し取っている。という主知主義的なモデルであり、言語に対して思惟は超越的な位置にある。
しかし、「思惟」とはどういうものか。
思惟を表現の諸現象の間に戻してみなくてはならないのだ。
メルロ=ポンティのターゲットは言葉ではなく、主知主義的な「思惟(コギト)」にうつっている。
〔失語症の現代的理論による検証〕
主知主義的なコギト(思惟)と言語とのモデルに対して失語症の分析から考えていく。失語症の分析は経験主義的なものから主知主義的なものへと移行していった。しかし、それは「新しい主知主義への未知ではない」。
色彩の名称に関する健忘症の場合、患者はさまざまな色を一つのカテゴリーのもとに包摂する能力を喪失している。「赤」を集めろと言われても、様々な色のチップから赤色のものを集めることができない。
様々な色彩をある方法でまとめる原理(思惟)があり、その原理を「赤」という言葉に名付けている、というモデルであれば、この患者は、その原理と言葉との関連が失われているということになる。しかし、そうではない。患者にとって、個別の色はあくまでも個別であり、「見本の一つ一つが、その個別的存在のなかに閉じ込められている」。「彼はいかなる原理も採用してはいなかった」。言語と思惟の間の関係は、「連合という外的な関係ではない」。
意味が語に住まうのであり、言語は「知的家庭の外的随伴者ではない。」それゆえ既述のように、われわれは言葉の身振り的もしくは実存的意義を認めざるをえないであろう。[319]
「赤」という言葉は、何らかのカテゴリーがあらかじめあって、そのカテゴリーに名付けられた(外的に関係づけられた)ものではなく、「赤」という言葉自体に意味が宿って、その意味関係は、それを発する人自身が「世界」と関係する働きそのものである。
〔言語と世界とにおける表現の奇蹟〕
なにかの意味がわかる、意味づけることができる、といったときにどのような「奇蹟」が起こっているのか。意味がわかったり、意味づけることができたとき、我々はその言葉を「身に着けた」となる。
無限に続く一連の非連続的行為において、人間の身体の自然的能力を超出し変貌させるもろもろの意義的核心を、自己に同化するということこそ、人間の身体を定義する特質なのである。この超越の作用は、まず第一に一つの行動の習得のうちに、ついでは身振りによる無言の伝達のなかに見出される。[320]
自然的な振る舞いとして「意味」を持っていない行為のなかに、何かしら意義をもった身振りが生じ、その身振りとその意味を「身につけて」自分のものとすることができるのが人間の身体だと言える。これは「言葉を身につける」のも同じ。このときどのようなことが起こっているのか。
一定の諸能力からなる一つのシステムが、突然その中心を狂わし、ゆがみ砕けて、主体自身にとっても外部の目撃者にとっても未知のある法則のもとに再編成されるのである。そしてこの刹那に初めてこの法則が彼らに知られるのだ。[320]
自然的・文化的な既存環境の中で、刺激に対応するように機能していたシステムが、ある時、その流れから逸脱し、未知の回路が通じてしまう。このとき、同時に、その回路の意味が生じ、「約束」を形成する。
夜道を男女二人で歩いている。男がふいに立ち止まって、空を見上げ「月が綺麗ですね」と言う。この振舞や言葉は、それまでの環境的な刺激に対応した一連の行動から逸脱している。男自身も女もその振舞や言葉に何らかの特別な意味があることを知る。あらかじめ「月」や「綺麗」という言葉と「好意」とが結びつけられている「法則」があったわけではなく、全く未知のものとしてその回路が通じる。未知であるにもかかわらず、両者に通用する、奇蹟である。
〔身体とデカルト的分析〕
言語と思惟を外的関係に置くことで、言語についての誤解が生まれていることになるが、この「元凶」をメルロ=ポンティは、デカルトにまで遡る。
デカルト的伝統によって、われわれは対象からわれわれ自身を引き離す習慣がついている。[327]
「対象」という言い方がすでにそうなのだけど、それを見るこちら側とは、無関係にあることになる。自然科学はこの「対象」と「観察者」の分離を基礎にして発展した。
われわれの身体自体も、この「分析」の対象とすることで、身体と精神とが分離した。精神は現実的存在ではない純粋に透明な思惟主体そのものであり、身体は対象化しうる第三人称的なプロセスしかない純粋な「物体」となった。ここでは存在も二つの意味に分離する。物としての存在と意識としての存在。
しかし「自己の身体」の経験を、もう一度実存的に捉え直すことで、身体と精神の分離では説明しきれないことに気がつく。
実はこのことにデカルト自身も気がついていた、というのは今回初めて知った。
生を行使することによって理解されるような身体と、悟性によって理解されるような身体とを区別している[328]
デカルトは、「自己の身体」のこの区別をどう統合しているのかというと、
事実としてあるがままの人間の背後に、われわれの事実的状況の理性的な創造者たる神がひかえているからである。[329]
どれほど自分の身体に、理性では捉えきれない位相があったとしても、その自己の身体自体をも、理性で捉えうる神がいるから、結局はすべては神の理性によって理解される対象であるとして「静かに受け入れることができる」。
メルロ=ポンティの挑戦は、自己の身体で経験される対象(オブジェクト)にへばりついた主体(サブジェクト)という現象が、「自己の身体」のみならず「世界」全体を覆っていることを説明しようとすること。
以上