千葉雅也「動きすぎてはいけない」ゼミ 第11回
2025年1月18日 大谷隆
範囲
序ーー切断論
0-6 方法ーードゥルーズ哲学の幼年期へ
69ページ8行目から71ページ5行目まで
ドゥルーズ哲学自体の軋み
この節は「方法」というタイトルがついている。
『差異と反復』においてドゥルーズは、様々な文脈を「コラージュ」しながら「サイエンス・フィクション」のように哲学する、という方法を宣言している。[69]
コラージュは、
通常の描画法によってではなく、ありとあらゆる性質とロジックのばらばらの素材(新聞の切り抜き、壁紙、書類、雑多な物体など)を組み合わせることで、例えば壁画のような造形作品を構成する芸術的な創作技法である。[ウィキペディア]
素材はもともと、或る文脈や或るロジックのなかにあった。複数の素材をコラージュするということは、複数の文脈やロジックにあったものを、もともとの文脈やロジックから一旦切り離して、他の断片とつなぎあわせること。サンプリングやリミックスと似ている。
それぞれの素材は、それ独自の視野があって、アングルがあって、奥行きがあったはずだが、それが別の視野やアングルや奥行きのものと並べられてしまう。前提を共有しない表層が隣り合う。そういうふうに哲学している。
「サイエンス・フィクション」のように、というくだりはよくわからない。
コラージュという操作は、内容的かつ形式的に、〈ドゥルーズ哲学の幼年期〉におけるヒューム主義、その連合説に呼応している。本校は、ドゥルーズの歩みにおけるヒューム主義のたびたびの浮上を、誇張的に重視するものである。他方、〈ドゥルーズ哲学の少年期〉では、ベルクソン主義にもとづく「差異の存在論」が成立する。私たちは、ドゥルーズのヒューム主義が、ニーチェ主義に合流しながら、差異の「存在‐論」のロゴスーーによる、あらゆる事物の「集約」ーーを分裂させる契機として、間歇的に作動することを、確かめるだろう。[69-70]
こういうイメージだろうか。ベルクソン主義に基づく「差異の存在論」を、わざわざ「差異の」を取りのけて〈「存在‐論」のロゴス〉という言い方で言い換えている。「存在」「論」「ロゴス」。これらはいずれも力強いワード。
特にロゴスは、
ロゴス(logos)とは、古典ギリシア語の λόγος の音写で、言葉、言語、話、真理、真実、理性、 概念、意味、論理、命題、事実、説明、理由、定義、理論、思想、議論、論証、整合、言論、言表、発言、説教、教義、教説、演説、普遍、不変、構造、質問、伝達、文字、文、口、声、ダイモーン、イデア、名声、理法(法則)、原因、根拠、秩序、原理、自然、物質、本性、事柄そのもの、人間精神、思考内容、思考能力、知性、分別、弁別、神、熱意、計算、比例、尺度、比率、類比、算定、考慮などの意味[ウィキペディア「ロゴス」]
ロゴスとは、圧倒的な普遍性をもった絶対で唯一の「一点」そのもの。そこからあえて意味を写し取れば、上記のような様々な言葉として言い換えられうるような「集約」感がある根本概念。同様に「存在」も、何よりも先に前提されうる、最初に検討すべきものという意味合いがある。「論」はつまりロジックで、その語源もまたロゴスである。存在論は、そういう意味で絶対的な始まりとしての「存在」を問うている。「ある」ということはどういうことか、が、一番最初に問われなくてはならないということであり、存在は、絶対的で、もっとも前にあるもの。
つまり少年期に成立する圧倒的で絶対的な強さをもった「ロゴス」としての「差異の存在論」に対して、幼年期のヒューム主義の「分裂」が、「間歇的に」「浮上」する。ロゴスとして絶対化する少年期のドゥルーズ哲学に対して、ドゥルーズの幼年期自らがそれを分裂させようと作動する。
ヒューム主義は、形式体にも、ドゥルーズ哲学の体系化の断裂(インタラプション)として反復される。本稿は、そうした裂け目、傷において、ドゥルーズ哲学の軋みに反応しようとする試みである。[70]
ドゥルーズは自らの哲学自体に、自らの哲学の強さを分裂させるような軋みを埋め込んでいるということだろうか。自分の哲学に完全無欠な強さを与えるのではなく、自分の哲学自体に「分裂の契機」を仕込んで自ら軋ませているということか。
だとしたら、ドゥルーズ以前の哲学者たちの営みはすべて、「彼らは、自らの哲学に完全無欠な強さを与えようとした」とひとまとめにして葬り去ってしまえるほどのインパクトがある。
逃走線
逃走線という興味深い言葉も同じことを言わんとしているような気がする。
草は、自らの逃走線を持っており、根を張りめぐらすことはない。[70-71]
千葉もドゥルーズも二分法に頼っていない。ヒューム主義とベルクソン主義を対置して、そのどちらかが正しいといっているわけではない。併置し、いずれも作動しうる状態においている。
本稿は差異の「存在論」の成立とその分裂のいずれか一方に、真のドゥルーズ像を定めるものではない。その「中間milieu」において、ドゥルーズ哲学の不安定である住まい(oikos)、ドゥルーズ哲学の体勢(エコノミー)を描こうとしている。[70]
「集約」されたものを分裂させることで分裂の優位を唱えるのではなく、この両者を併置しつつ、その対立関係自体からも逃走する。ような「逃走線」を「自ら持っている」。なにか強いものがあったとして、それを打ち倒して、その地位が入れ替わったとしても、強いものという立場自体は変わらず存在する。こういう闘争自体から逃走する。「根を張りめぐらすことはない」。
ドゥルーズは自らの哲学が、それまでのロゴスを打倒して(切断A)、新しい集約的な強さを獲得するだろうことに対して、それ自体からも自ら逃走線(切断B)を持っている。自分で自分の強さから逃げ出せる、ということだろうか。
以上