【36】メルロ・ポンティ「知覚の現象学」ゼミ 第35回 # メルロ・ポンティ「知覚の現象学」ゼミ 第35回 2025年6月2日 大谷隆 ## 範囲 第二部 知覚された世界 Ⅰ 感覚すること 〔諸「感覚」の一般性と特殊性、感官は「領野」である〕 〔感官の多様性、いかにして主知主義はこの多様性を超出するか、またそれは経験主義に対していかなる正当性をもっているか、それにもかかわらず反省的分析は抽象性にとどまっておること、アプリオリなものと経験的なもの〕 〔各感官はその「世界」をもつ〕 ## 〔諸「感覚」の一般性と特殊性、感官は「領野」である〕 対自か即自か。主知主義か経験主義か。この二者択一を我々は免れている。それはどのように可能なのか。 メルロ=ポンティは、一般(普遍)と特殊、全体と部分といった対義語の語群を使って説明していく。 まず、1つ目の理由。 > 一、いかなる知覚も一般性の雰囲気のなかで起こるのであって、匿名のものとしてわれわれに提示される。[353] 「私が空の青さを見る」というとき、「私が一冊の本を理解する(知る)」「私の生涯を数学に捧げる決心をする」というような意味で、「青さ」を知るわけではない。本を理解したり、自らが数学者としてあろうとするときに前提される「私」という人格的なものはまだない。だから、 > (空の青さを見るような)知覚経験を正確に言い表そうとするならば、私は、**ひと**が私において知覚するというべきで、私が知覚するというべきではない。[353] まだ私に生じていない、私に含まれるものとして「空の青さ」が到達する以前の先人称的な状態。これは、「私が生まれる」「私が死ぬ」といった場合の、私としての存在がない状態と同じ。 > この活動性は、私の存在の周辺で繰り広げられるのであって、私は私の出生と死に対する場合と同様、私の感覚の真の主体であるという意識をもってはいない。[358] 一つの感覚も、人の生と死のように、あらかじめ主体がある上で生じているわけではない。 > 各々の感覚は厳密にいってそれぞれの種類の、最初のものであり、最後のものであり、そして唯一のものであるから、一個の出生であり死である。感覚を経験する主体は感覚とともに始まり、ともに終わる。そしてこの主体は自己に先立って存在することも、自己を超えて生き残ることもできないのだから、感覚は必然的にそれ自身にとっては一般性の領域に現れる。[354] 「一般性」という言葉の使い方が独特に思えるが、こういうことだろうか。感覚は「私」という個人的な独自の主体に至る手前で起こる。「個人的で独自」を「特殊」とみなせば、それに到達する以前の「匿名」状態なので「一般」となる。 2つ目の理由。 > 感覚が匿名でありうるのは、ひたすらそれが部分的であるからこそである。見る主体、触れる主体が、正確には私自身ではないのは、視覚的世界、触覚的世界が世界全体ではないからである。[355] 部分と全体の話に移る。視覚だけ、触覚で世界の全体を知覚するのではない。また、各々の視覚や触覚のなかでも、全部を知覚することはできない。見えてる物の背後があり、触れることができない内部がある。部分的で全体をみわたせない。それにもかかわらず、我々は視覚や触覚で一つの世界を捉えていると思っている。対象として「ずっとそれがそこにある」と思っている。 この二つの理由を要約するのだが、ポイントはこういうことだろうか。 一つ目の理由の記述は、「特殊ではなく一般」。二つ目は「全体ではなく部分(専門)」。一般と全体は言葉の意味として同じサイドにある。同様に特殊と部分(専門)も同じサイドにある。この二つの記述は互いに逆方向になっている。相反的で相補的な記述になっている。 この二つから感官は「領野」である、という結論になる。 領野というのは、ある広がりの中に物があって、その物を見ようとすればそれが図になり、それ以外が地になったり、その物の背後の見えないところにも空間がある、ということ自体を言葉にしたものということか。つまり、我々が当たり前にそのように「見ている」世界の在り方を示すのが「領野」。 メルロ=ポンティの議論は、経験主義や主知主義のように絶対的な前提(客観的世界や超越的な自我)を設定し、そこから現に我々に見えている世界の在り方を説明しようとするのではなく、我々が現にそのように見えている世界の見え方を言語的に記述することを目指す。そちらを前提にして、経験主義や主知主義を説明する。つまりどうやって経験主義と主知主義の二者択一から免れているのか、という問いに、メルロ=ポンティは、そもそも我々は最初からそんなふうに世界を見ていないと答えているのではないか。 このあたりの議論のもって行き方に、面白さとわかりにくさを感じる。 ## 〔感官の多様性、いかにして主知主義はこの多様性を超出するか、またそれは経験主義に対していかなる正当性をもっているか、それにもかかわらず反省的分析は抽象性にとどまっておること、アプリオリなものと経験的なもの〕 視覚や触覚といった感官は複数あって、それぞれが区別されていると我々は思っている。 そもそも感覚や感官について。経験主義的には、客観世界にある対象からの刺激がそれぞれの感官をつうじて感覚を受容するという説明になる。主知主義的にはすべてが観念の意識の中にある。意識としてそうあるところのものとして、すべての感覚は観念として生じている。 なので、主知主義的には、それぞれの感覚や感官はあくまでも観念の中の一つの形に過ぎない。映画「マトリックス」のように、そう感じたりそう見えたりするように、我々が思惟しているだけだ。だから、感官の多数性について本質的な問題とはならない。 この経験主義と主知主義との間のズレをメルロ=ポンティはこの節で議論していると思うのだが、詳細は追いきれなかった。カントの理解が必要かもしれない。 結論的には、どちらも含みつつ、どちらも完全ではないものとして、次のように記述される。 > われわれは、あらゆる性質の普遍的条件として、唯一の空間をもつのではなく、諸性質のそれぞれにおいて、空間に臨む特殊な仕方、いわば空間をつくる特殊な仕方をもつのである。それぞれの感官が大いなる世界の内部で小世界を構成するということは、矛盾でも不可能でもない。そしてそれぞれの感官が全体にとって必要であり、全体に向かって開いているということもかえってその特殊性によってなのである。[364] 複数の感官がそれぞれで世界をつくっている。ある感官のつくる世界は他の感官の世界とは異なった特殊なもの。その特殊な小世界が全体に向かって開いていることによって、あたかも世界を一つのものだと認識しつつも、世界のすべてをみわたせないことも受け入れている。 ## 〔各感官はその「世界」をもつ〕 我々は、この世界をたった一つの世界(客観的世界)だと思いつつ、その世界のすべてを見渡せなくても受け入れる。この客観的世界におもむくことを「能力」とすれば、それは、それぞれの感官の中に閉じこもって「専門的に」何かを捉える能力と「わかたれえない」。 視覚、触覚・・・という感官は、それぞれで「空間性」をもっていて、他の諸感官にとっては絶対的に知られざるものである。視覚的な空間と触覚的な空間は同じではなく、「空間の統一性は、感覚的諸領域の相互の噛み合いのうちにのみ存在する」。 つまり、僕たちが「空間」として知っているものは、実は多数の感官による噛み合いによってそうだと知れているだけで、客観的に(例えば他の生物には)そうだとは知られていない。また、空間は単に視覚的なものではなく、物陰や遠近があると思えたり、表面と内部といった構造として知るためには触覚も必要ということか。 盲人が手術によって見えるようになったときの発言はとても興味深かった。 > 「患者は、見えるけれども何を見ているのかわからない、と断言する⋯⋯。彼は自分の手を自分の手として認知できない。彼は、動きつつある白いしみについてしか語らない。」 以上 Share: