【36】メルロ・ポンティ「知覚の現象学」ゼミ 第36回 # メルロ・ポンティ「知覚の現象学」ゼミ 第36回 2025年6月30日 大谷隆 ## 範囲 第二部 知覚された世界 Ⅰ 感覚すること 〔諸感官の連絡、諸感官に「先立つ」感覚すること、共感覚〕 〔諸感官は両眼視における単眼視像のように相互に区別可能であると同時に区別不可能である。身体による諸感官の統一〕 〔世界の一般的象徴作用としての身体〕 〔人間とは**共通感官**である〕 〔知覚的総合は時間的である〕 〔反省とは非反省的なものの再発見である〕 ## 〔諸感官の連絡、諸感官に「先立つ」感覚すること、共感覚〕 前節までの話。眼の前の「見ている消しゴム」と「触れている消しゴム」は同じ一つのものだとしても、つまり、「消しゴムを見ること」と「消しゴムに触れること」という二つの経験は、同じ消しゴムについてという「意義が共通」であっても、見ることと触れることはそれぞれで世界を持つ。それでは、どうやって我々は一つの世界に対峙していると思えるのか。 これに対してメルロ=ポンティは、こう答える。 > なぜなら、もろもろの感官は互いに連絡し合っているからである。[370] それぞれの感官がとらえる対象が同じ対象だと思うには、それぞれの感官に「先立って」、その対象が一つのものであるとする何かしらが必要になる。 例えば視覚に関して、照明の当たっているところにある白い紙を見たときに「白い紙」と感じ、影になっているところにその紙を置いても「白い紙」と感じるが、光の波長といった光学的なレベルでの「白さ」は全く異なる。しかし、我々はその紙を、同じ紙だと認識することで「白い」と感じている。(チェッカーシャドー錯視もおそらく関連) 紙の「白さ」という紙の性質を得る前に、それに対する何かがあることになる。 > 性質、つまり分離された感覚性が生ずるのは、私が私の視覚のこの全体的構造化を破壊し、私自身のまなざしに従うことをやめ、視覚に生きるかわりに、視覚について自問し、私の諸可能性をためそうとするときである。[372] 「性質」として生じる前に、われわれは「まなざし」によって「光景」を得ている。これが「自然な態度」であり、「先立つ」感覚である。これらをメルロ=ポンティは「全体的構造化」という言い方をしている。全体的という意味は、様々な感官の連絡によるという意味だろうか。対象の白さという「性質」が生じるとき、この全体的構造化が破壊されて、「白い」という性質が抽出される。一旦抽出され分離された性質は対象に強固にへばりつき、多少照明が変わっても同じ「白さ」としてあることになる。 つまり、性質として成立することと同時に、対象として成立する。一旦対象化されるとそれは滅多なことでは変化しないことになる。 ## 〔諸感官は両眼視における単眼視像のように相互に区別可能であると同時に区別不可能である。身体による諸感官の統一〕 この対象化について、両眼視と単眼視による考察が続く。ある「単一の対象」を見るとき、両眼視の場合と単眼視の場合で見え方が異なる。遠くを見ていると手前にある物は二重の単眼視像として映る。その物を見ようとすると、二重の単眼視像が消えて一つの両眼視像になる。この統合はどのようになされているのか。 そもそも、二重の単眼視像が同じ対象についての像だというのは、なぜわかるのか。この統合は「概念的統一」や精神による洞察によるものではない。理性によって同一の物であると判断されることで統合されているわけではない。 > つまり単一の対象は、二つの像とは別の類のものであり、比較にならないほど、より堅固なものなのである。両眼視においては、複視の二つの像が混じりあって単一の像になるのではなく、対象の統一は、まさしく、志向的統一である。[380] 精神(思惟)による統一ではなく、身体による統一なのだが、ここでいう身体は「客観的身体」ではない。現象学体身体である。現象学的身体は、精神と対立するところの身体のことではなく、精神と身体に分離される前の「自身の身体」。この自身の身体による志向的統一が、対象を統一させ、諸感官を統一させる。 ## 〔世界の一般的象徴作用としての身体〕 現象学的な「自身の身体」は、物を対象化するだけではない。 > 身体が意味を与えるのは、単に自然的対象だけではない。語のような文化的対象もまた、身体によって意味を与えられるのである。[384] ここはかなり核心で、メルロ=ポンティも踏み込んでいる。 > 身体とは自分自身の諸部分を世界の一般的な象徴手段として用いるあの特異な対象なのであり、したがってそのおかげでわれわれがこの世界と「親しくなる」ことができ、それを「了解し」そこに意義を見出すことができるようになる当のものである[387] 現象学的な「私の身体」が対象を作り出し、意味を与える。つまり、私にとってのこの世界の全般を意味づける場所だということになる。 ## 〔人間とは**共通感官**である〕 「世界における(への)存在」という二重の表現の分裂について。我々は、二者択一を迫られている。 一つは、 > 私は自分を世界のさなかにあるものとして、つまり、もろもろの因果関係によってとりまかれた私の身体をとおして、世界のなかにさしはさまれたものとして の存在。言い換えれば、即自存在。この場合、「「感官と身体」とは物理装置となり、何ものをも認識しない。」つまり「世界に**おける**存在」。 もう一つは、 > ーーそれとも私はいかにして見るということが成り立つかをほんとうに理解しようと欲するか、その場合は、しかし、私は構成されたもの、即自的にあるものから出ていって、それに対して初めて対象がありうるところの存在を、反省によって捉えねばならない。 つまり、対自存在として、意識として、思惟によって、主観として。こちらは「世界**への**存在」。 この二者択一に対して、メルロ=ポンティは、どうやってわれわれは免れているかを考える。 メルロ=ポンティは、意識と知覚を区別する。意識という言葉は主知主義的な言葉で、超越的な意識を意味する。あらゆる対象を観ることができる、それ自体は対象にならない、純粋な主観としての意識。もし、我々がこの意識を持つとすれば、「意識は自己自身の前に何も包み隠すことなく繰り広げられるはず」だ。しかし、知覚は違う。 > 知覚する**者**はそうではない。彼は歴史的な厚みをもち、知覚の伝統を受け継ぎつつ現在と対決させられている。[390] 知覚する者は、身体をもっている。身体が知覚という場所であり、この場所で諸感官は連絡しあっている(共通感官)。 ## 〔知覚的総合は時間的である〕 ここまで来ても主知主義はしつこく食い下がることができる。つまり「以上のようなことを意識が思惟しているだけではないか」と。 この主知主義のしつこさを利用するようにして、メルロ=ポンティは重要な概念を「知覚で」説明する。 > しかしながら、知覚的総合はわれわれにとって時間的総合であり、知覚の水準における主体性は時間制以外の何ものでもない。[391] テーブルを凝視して「知る」ためには、凝視へのプロセスが必要。このプロセスには時間性がある。もっと言えば、 > 凝視の運動の度ごとに、私の身体は現在、過去、未来を一つに結びつけ、時間をいわば分泌する。[392] 主知主義の絶対的な意識は、時間性を持たない。時間性を説明しにくい。すべてを知っているという場合の「すべて」のなかに時間も空間も区別なく溶けてしまっている。 一方、メルロ=ポンティは、知覚というものが、時間を生み出すとする。世界という場合の空間性だけでなく、時間性も、知覚「プロセス」によって生じたものだという。この理路はとても面白い。 我々はどのようにして知らなかったものを知ることができるのか、という主知主義の弱点を突く問いに対して、「知覚する」から、知る「前」と知った「後」が生じる。つまり、知覚が先にあり、そこから時間性そのものがつくり出されている。知覚が更新されることで時間が進む。 ## 〔反省とは非反省的なものの再発見である〕 主知主義の反省ではない「新しい種類の反省」について。 クリアな主体的意識による反省的分析、といった主知主義的なものではなく、知覚プロセスを前提として考えると、そのプロセスが生じる領野では、 > ここでは何も主題化されてはいない。対象も主体も**措定されて**はいない。[395] 対象・主体、客観・主観といった主題が措定される前の「原初的経験の地平」があり、この「領野」で知覚することで、時間と空間が措定される。こうして「世界における」私と「世界へ」おもむく私が現れる。この「私」は主知主義的な反省もできるようになる。 新しい種類の反省は、反省する主体そのものを措定する反省で、実存主義的な言い方をすれば「人になる」ようなことだろうか。 いずれにせよ、主知主義的に大きな語彙たちは軒並み、現象学的な前プロセスが必要なものでアプリオリなものではないということになる。 ## メルロ=ポンティの議論 こうしてみると、メルロ=ポンティは、我々がごく当たり前にそう思っていることを、「知覚」から説明することで、説明が破綻しにくいのだということを主張している。 たとえば、我々には、手前にある物の後ろは見えないが、そこにも空間があり、物の後ろへ回ればそこがどうなっているか知ることができる。時間というものがあって、過去から現在、未来へと流れていて、過去の時点から、現在や未来を知ることができないが、現在からは過去は知ることができる。 我々は、それまで知らなかったことを知ることができる。こういったごく自然な我々の認識の説明になっている。 主知主義は間違っていて、現象学が正しい、といった二者択一的な議論がしたいのではなく、どちらのほうがより我々がそう思うところの対象や主観、空間や時間、そして世界といったものを説明しやすいか。そして、さらに、なぜ、実は説明しにくいはずのそういった語彙による考えをなぜ採用してしまいがちなのか、を議論しようとしている。この辺がとてもおもしろいと感じる。 以上 Share: