【38】千葉雅也「動きすぎてはいけない」ゼミ第17回 # 千葉雅也「動きすぎてはいけない」ゼミ 第17回 ## 2025年7月19日 大谷隆 ## 範囲 第1章 生成変化の原理 1-5 心身平行論と薬毒分析 94ページ1行目から99ページ1行まで ## 精神と身体 精神mensと身体corpusの二分法は西洋哲学における伝統的な大きなイシュー。精神の側の重要なタームは、意識、思惟cogito、意思、認識など。身体の側は、物体など。 デカルトは心身二元論。精神と身体は別の存在様式。精神が身体を支配するか、身体が精神を支配するか。この場合「無意識」は、あくまでも精神の側にあり、「明晰でない意識」つまり、ある種不完全な不十分な意識でしかない。 スピノザは心身平行論。精神と身体は別の存在様式でありつつ、「一方の他方に対する優越を一切禁じている」。ある出来事を精神と身体がそれぞれ「表現」する。この場合の「無意識」は、「身体のもつ未知の部分と同じくらい深い思惟のもつ無意識の部分」という、いわば「無意識」も思惟の一つであり、同時に身体もその深さで何らかの表現をしている。デカルトの基準よりも積極的な意味を与えられる ドゥルーズはスピノザの系統をとる。精神と身体は同時に作動する二つの経路のようなものなので、ある出来事は精神的にも身体的にも何事かが起こることで生じている。 ## 精神分析と薬毒分析 ドゥルーズは、この並行回路によってドラッグの作用を考える。 ドラッグは外からの触発を生理学的に起こす。これは、精神と身体の二分法で考えると、身体側の回路。その結果、同時に、精神の側の、例えば幻覚のようなものを引き起こす。デカルト的に考えれば、身体が精神を支配していて精神は受動的なサブの下位位置に置かれる。スピノザ的には、身体的な触発と精神的な触発が同時に作動している通常状態の一つであり、特段の特殊性はない。精神と身体は常にそのように並行している。 また、精神分析(フロイト)は、精神と身体の二分法により精神と身体を分離したうえで、あくまで精神の側だけで分析する。フロイトが見出した無意識は、だからあくまでも身体的なものを除外した精神の領域、意識の奥深くへの潜行によってしかたどり着けない。 ドゥルーズの薬毒分析は、スピノザを参照する。ドラッグという生理学的な身体の側の「器質的」物体的、物理的なものでありつつ、精神的な出来事でもある。つまり自由連想でによってあくまでの精神の範疇でたどりつくフロイトの無意識ではなく、ドラッグという外的な物質によって強制的に「切断的に」「新しい無意識の風景」をもたらす。フロイトの無意識とは異なる新しい無意識。ドゥルーズは、このドラッグによって作り出された一次的な仮のアドホックな無意識に注目する。 この無意識は実はドラッグだけによって生じるのではなく、「一つのモデル」と考えられるので、例えば、チキンカレー、空の青さ、或る口元など、どんなものでも引き起こしうる。ただ、ドラッグと同じように、ハイリスクでオーバードーズもあり得る。 > アドホックな内在理由のみで済ませる、欲望の〈麻薬的内在性〉。これを原理とする「薬毒分析」は、存在的な要因による中毒依存をめぐる分析である。[98] たまたまとか人に勧められてとか、なんとなく気になってとかで手を出せてしまい、引き起こされる出来事。精神分析のように強烈な経験によるトラウマだったり、幼少期の境遇だったりといったものに原因を求めるガチガチの固い原理ではない。 こういった「中毒」現象は、芸術や表現において親和性が高い。優れた芸術表現はドラッグのように外からたまたま作用して、自分の(無)意識を別の状態へ移行させる(生成変化)。 生物学的な性別や幼少期の境遇などはアプリオリで絶対的な内在理由になるが、ドラッグや表現はアドホックな内在理由で、あくまでも仮の状態であり、別の仮の状態に変移しうる。こういったことをドゥルーズは重要視した。 以上 Share: