【38】千葉雅也「動きすぎてはいけない」ゼミ第9回 ## 2024年11月16日 大谷隆 ## 範囲 序ーー切断論 0-4 日常的に潜在する差異の狂騒 57ページ7行目から65ページ2行目まで ## 「それがそれである」ことを疑う 読んでいてワクワクドキドキした。 > 自我も世界も、異質でバラバラの事物がアドホックに連合されている結果ではないのか?[58] この僕と言っているものは、今、仮にかろうじて寄せ集められたものでしかないのではないか。その僕がいる世界もそうではないのか。 「ふつう」そんなことを考えたり、体験したりしないけれど、その「ふつう」というやつで、かろうじてまとめられている「自我と世界」においての話でしかないとしたら。 良識や常識といったいわゆる「ふつう」を、僕達は、自分の外側にあるやんわりとしたルールとして、それを任意に参照しているだけのように思っているけれど、実は、僕や世界というもの自体が、そのやんわりとした仮のまとまりの「ふつう」によって「ある」のだとしたら。 > ある事物Aが、次の瞬間にもその次の瞬間にもAであり続けること。A=Aという同一性を、私たちは、ひとつの正しい方向の(良識的な)時間に乗った、(常識的な)共通感覚によって再認している。[58-59] 遠ざかっていく車を見るとき、なぜ、車が小さくなっていっているように見えないのか。複雑な形状をしたマウスをぐるぐる回して見たとき、なぜ、いちいち違う形に変形していっているとは見ないのか。次々と異なる大きさや形のものに入れ替わっていると見ないのか。 > Aをいったん捉えたなら、時間の進行のなかで、続けてまたそれをAとして再現前化(表象)し、維持する。この場合、どのような変化が起ころうとも、それはA=A「この一杯のロックのバーボン」**の**変化であり、ゆえに変化ないし差異の概念は、良識と常識によって支えられたA=Aという同一性に従属している。[59] 当たり前で、疑ってもいないことを疑わさせられると、なんだかソワソワドキドキする。 僕達は何かを「それがそれだ」と思っているけれど、これには確固たる根拠はなく、僕達が「それがそれだ」としているから「それがそれになっている」。 例えば字をじっと眺めていると字に見えなくなることがある。波打ち際で波をずっと眺めていると何がどうなっているのかわからなくなる。こういうぼーっとした状態が、実は特殊なのではなく、むしろ、そっちがデフォルトで、そうではなく、「それがそれだ」と了解できている状態のほうが「仮」なのだとしたら。ヒュームの主張はそういうことらしい。 > 自分自身からの逃走線のほとばしり。[62] 自分自身から逃げ出してしまえるとしたら、何もかもが何でもない。 デフォルトのバラバラ状態はドゥルーズ的には「潜在的 virtuel」で、「それがそれだ」と「事物を同定できる経験のレベル」が「現働的 actuel」とする。 で、大事なのは、 > **けれども、際限なくめちゃくちゃになれというわけではない。**重要なのは、ドゥルーズ&ガタリが「慎重さ」を求めていることである。[63] 慎重さ。 > 慎重さ、処方量(ドーズ)のテクニックといったものが必要なのであり、[63、『千のプラトー』] ドーズのテクニック。 > 私たちは、「オーバードーズ」を回避し、生き延びている。[64] > オーバードーズの回避とは、生成変化を次に展開させるために、接続過剰を控え、切断を行使することだーー非意味的に、或るいい加/減で。[64] なんて難しいことを、と思うが、実はそれを日常的にやっている。 ## 現実の表面がめくれた ゲルハルト・リヒターという画家の「アブストラクト・ペインティング」シリーズを見たとき、キャンバスにペンキを何色も重ねて乾く前にそれをスキージというヘラで擦っていったものだけど、現実の表面が四角くキャンバスの形にめくれて「中身」が見えてしまっていると思った。美術館を出てからも30分くらいそんな状態で、道を歩いていても横断歩道と歩道と煎餅屋が視界に入っている時に、そこのあたりがベロっとめくれて、煎餅屋と歩道と横断歩道が見えているその辺の現実の中身が見えてしまうのではないかと思ってしまった。現実の三次元空間とは全く異なる上も下も右も左もない、どろっとした現実の中身。 この現実は、確固たるものだという確信が、そんなに強いものではないのは、時々庭を眺めていたり、石をただ拾っていたりすると、感じる。 また、本を読んでいると、本の中の時間に入り込んでしまって、本の外の時間がどれぐらい経っているのかは、全くわからなくなる。読書だけでなく、パソコンに向かって調べ物をしていたり、要するに何かに集中したり夢中になっていたりすると、その時間と空間に入り込んでしまう。それは「現実の時空」ではない。でも、「現実感」の強度は確かにあって、むしろ現実の現実感よりも強かったりもする。 そんな現実ではない現実感が、ちょっと本を開いたり、スマートフォンのロックを解除したりしたとたんに日常的に現れうることを知りながら、5時半に保育園に迎えに行ったり、時間通りにリモート会議をしたりする。 ## 余談で脱線だけど、 現実を見ながら、それがそうなっていることを「読む」ことができるときがあって、現実の15センチほど奥までを見ているような感覚がある。現実というものの裏側にある隠されたメカニズムを15センチ分だけ見て、現実の仕組みを読むようなことができる気分。これは物理学を学んだから物理法則によって現実を予測することができるというタイプのものではなくて、もっと第六感的なものなのだけれど、たぶんこれはこうだろう、だからこうなるだろう、みたいなことがなんとなく読めて、実際にそうであるということが、時々ある。「あっちに行けばなにかあるはず」と思って行くと、実際何か比較的重要なものがあるという感じ。本を読んでいて、これは何かと関係あるだろうと思って書き写すしたり意識の残しておいたりすると、その後会った人との会話でそれが話題になるとか。偶然という感じではなく、かなりの強度の確信を持ってそういう「関連性」が読める気分がある。 オカルト的でない説明をすると、そういった関連性自体を自分が作り出していこうとして現実世界に働きかけているということになるけれど、そもそも、現実世界というのは僕がこのようであるように働きかけていくことでこうなっているという割合が結構高いと思っていて、それを勝手に実存主義的と思っている。 ## 言葉遣い「超越論的」 カント『純粋理性批判』の「超越論的」について。 たぶん・・・、カントの「超越論的」は、「理性」というものがアプリオリ(経験よりも前)にあって、その「理性」が事物を「認識する」、ということは、理性は経験が届かないところにある、また、理性による認識では理性自体も届かないところにある。そういった理性の超越的な存在について、その条件・前提を考える(超越論的)ことだろうと思う。 一方、 > ドゥルーズでは、A=Aの同一性の乱れについて、超越論的という形容を用いるのである。[59] 「ふつう」じゃない時についての、潜在していた「差異の狂騒(めちゃくちゃ)」が表に出てきてしまうようなときを「超越論的経験」としている。 > カントに従うならば、私たちは、権利上はまとも=理性的であり、事実上、多少なり狂う=理性的でなくなるときもあるにすぎない。ドゥルーズの場合は、まったく逆なのだ。私たちは、権利上つねにすでに狂っているーー酔っている、薬中(ジャンキー)であるーーと考えるべきであり、事実上、多少まともになるときもあるにすぎない。**認識のレベルでも、倫理のレベルでも**そうなのである。[60] なかなかやばい。 ちなみに「超越的」と「超越論的」は「似て非なるもの(ウィキペディア)」らしい。 > したがって、ここでいう「超越論的」(独:Transzendental、英:transcendental)哲学という表現は、 > 「経験を超えた(先験的な)「超越的」真実在(すなわち物自体)- にまつわる適正な理性関与 (- の境界策定・基準設定(メタ規定)) - についての、事前的な/先行的な/自覚的な」 >哲学ということであり、「超越(についての)≪前提≫論的」「超越(についての)≪メタ≫論的」等とも言い換えることができる。[ウィキペディア「超越論哲学」] 〇〇についての前提論的、〇〇についてのメタ論的、というのが「〇〇論的」。 今回は割と思いつくままに書けた。 以上 Share: