【36】メルロ・ポンティ「知覚の現象学」ゼミ 第31回 2024年11月1日 大谷隆 ## 範囲 第Ⅰ部 身体 Ⅵ 表現としての身体と言葉 〔失語症における経験主義と主知主義、いずれも説明として十分ではない〕 〔言葉は意味をもっている〕 〔言葉は思惟を予想するのではなく、それを成就する〕 〔言葉における思惟〕 〔思惟は表現である〕 〔身振りの了解〕 ## 〔失語症における経験主義と主知主義、いずれも説明として十分ではない〕 これまでのメルロ=ポンティの言い方では、「いずれも、十分ではない」という場合、どちらも「必要」ということになる。今回もおそらくそうだろう。 この節は、失語症の症例からパロールの意義作用について取り扱っていく。 > 言葉(parole)の現象と明白な意義作用との記述を試みることによって、われわれは主観と客観という古典的な二分法を決定的に超える機会に恵まれるだろう。[289] それによって、主観と客観という古典的二分法を超えることになる、ということでかなり意欲的。 ここでいう「明白な意義作用」は、前節の「本源的な意義作用」を指していると思われる。 > 私にとっても、他人にとっても、記号の一つ一つに対してきまった意義が与えられているという、ひたすらそういう条件のおかげで、初めて他人に私の思想を告げ知らせることができるといった、したがってこのような意味においては、慣習的な表現手段に至る手前に、表現される内容が表現と別個に存するのではなく、記号そのものがその意味を外部に誘い出すといった、本源的な意義作用の存在をーーやがて明らかとなるように、ーーわれわれは認めねばならないのである。[279] では、その、言葉の意義はどのように実現されているのか。「持つ」と「習慣」という語の語源で関係づけられているようなことが、語の意義作用にはあるのだが、それは掩いかくされている。「持つ」というのは「習慣」として身につけることと語源では関係している。 なのに「ある(存在)」という領域で捉えられている。つまり、客観的なものの存在があり、それを「持つ」こととして「言葉を持つ」こと、つまり「言葉」が客観的に存在していて、それを「所有」しているという外敵関係で捉えられてしまっている。しかし、「言葉を持つ」のは「言葉を習慣として身につける」ことであり、この場合、言葉は客観的に自分の外側にあるわけではない。 このことは訳注(57)で、訳者からも、より具体的に示されている。 > 私は自分の万年筆を使い馴れ、私の家に住み馴れることによって、これらをまさに私の万年筆、私の家たらしめるのであり、それらは私の習慣の一部となるのだから、物質的対象を補語としてもよいと訳者は考える。要するに、外的な所有権の関係にとどまらないで、人格的な関係となればよいのである。[829] 言葉の「所有」は、外的な権利関係とは言えない。言葉を身につけること、自分のものとなすことである。この「人格的な関係」において、「本源的な意義作用」が発生している。 失語症患者は、この人格体な関係を失っている。語との外的な関係としての「意味(辞書的な意味)」は所有しているから「自動的言語の平面においては患者の思うままになる」が、「動機なく自由にしゃべる言葉の平面においては彼から逃れる」。 色の分類は、主知主義的な領域で、何を「青」とするかを判断する。具体的に似ている色を隣り合わせて共通点で区分けするのは経験主義的な領域である。正常人はこの両方を持っているが、患者は前者を失っている。正常人は、主知主義的な領域と経験主義的な領域を、人格的な関係によって両方をもって行き来することで、色を扱っている(持っている)。 ## 〔言葉は意味をもっている〕 経験主義的な心理学も主知主義的心理学も、どちらも「語が意義をもっていない」。 経験主義的には、ある波長の光が視神経を経由して何らかの像を結ぶことを「赤」という語で言う。主知主義は、この現象を分類して「赤」と判断する。しかし、この照射とも「赤」という語の意義が、「赤」という語とは無関係に設定されている(恣意的に)。 > 第一の考え方は有意味的なものとしての語の手前にとどまっている。[293] 現象があるだけで、意味を持った語になっていない。主体がない。 > 第二の考え方はその向こう側に立つ。[293] 主体はあるが、語る主体ではなく、考える主体になっている。主体が語の位置にとどまっていない。 これでは「語の意味」の発生について何かを言うことができない。それを乗り越えるには「語は意味を持つ」と言わねばならない。 ## 〔言葉は思惟を予想するのではなく、それを成就する〕 文章を書くとき、あらかじめ書く内容を考えてからそれを言葉に写しているというわけではないことが、ある。書いてみないと何を考えているのか、いたのかわからないことが、ある。(そうではない場合もあるが) 考えたり思ったりしたことは、まだ自分のものではなくて、単なる一つの経験である(なにかにぶつかった、とか、日なたに出て暑かったとか)。それを表現することによって、自分のものとなる。 主知主義の言うように、私の精神の中にそれの概念があって、それがその語と結びつけられているのではなく、その語そのものが意味を担い、私はこの語で対象を名指すことによって対象に到達したという意識を持つ。 これへの反論として次のようなものが考えられる。 > 幼児は言語による指示をとおして対象を知ることを学ぶのであって、対象は最初は言語的存在として彼に提示され、後になってから初めて自然的存在となるのだ、要するに、言語的協同体の事実上の存在によって幼児の信念は十分説明される[295] 幼児が言葉を覚えるのは、あらかじめ言語的協同体が存在していて(客観的、外的に存在している)、そこでの言語使用法を教わっているからだ。という反論になる。 これに対するメルロ=ポンティの答えが、とても興味深い > こう反論してみても、これは問題の性格を変えるものではない。 そしてこう続ける。 > というのは、もし幼児が自然に関する思惟として自己を知る以前に言語的協同体の一員として自己を知ることが可能だとすれば、それは主体が普遍的思惟として自己を知らぬがままに言葉(パロール)として自己を捉えることが可能であり、語が対象や意義の単なる記号にとどまるどころか、事物そのものに住まい、意義を担い運ぶものであるとすることを条件としているからである。[295-296] 言語的に対象を知った後で、その対象が自然的存在になるのだとすれば、自己を知らない状態で言葉として自己を知ることができることになる。これは、語が対象を指示する単なる記号であることと矛盾する。つまり、反論に見えて実はむしろ「語が意味を持つ」ことを肯定している。 ### なぜ言葉は「伝わる」のか、新しく知ることができるのか 受け手が「解読できる」から言葉が伝わっている、と思いたくなるが果たしてそうなのか。 > 一見したところでは聴取された言葉は、聴取者に何ものも与えることができないかのように思われる。つまり、語や文章に意味を与えるのは他ならぬ聴取者自身であり、語や文章の結合である外部から聴取者に与えられるものではない、なぜなら聴取者のうちに自発的にこれを実現する能力がなければ、たとえこうした結合が外から持ち込まれたとしてもそれは了解されないだろうから、とこう思いたくなる。[296] ここで問題になるのが、ではなぜ新しく知ることができるのか。そう思えることが起こるのか。 メルロ=ポンティは、実は逆だという。新しく知った、学んだと思ったときに「核心に移され、その源泉に触れる」。そこから「振り返ってみると、さまざまな与件が収斂するように見えてくる。最初は無規定で、新しく学んだ時に、規定が見えてくる。 > したがって言葉をとおしておこなわれる他人の思想の継承、他人への反省、**他人にならって**考える能力が存在するのであって、これがわれわれ自身の思想をいっそう豊かにするのである。ここでは、語の意味が結局、語そのものによって誘い出される、いやもっと正確にいうと、語の概念的な意義が、言葉に内在する**身振り的意義**から汲みとられ、それに基づいて形成されるのでなければならない。[297] 言葉が意味をもっているから、その言葉によって、それを発した人にならって考えることができる。その言葉に内在する意味=身振り的意義から汲み取る。その結果「伝わった」ことになる。という説明になる。 ### なぜ文学(言語表現)は他の表現と比べて特別視されるのか 「言葉では伝わらない」という言い方はよくされるが、「絵では伝わらない」「音楽では伝わらない」と言う人はあまりいない。 > 自然的な近くに現れるがままのパレット上の色彩だとか、楽器のなまの音などは、ある楽曲の音楽的意味やら、一幅の絵の絵画的意味やらを形づくるに十分ではないことが一目瞭然であるのに、どのような文章であれ、それを理解するに必要なものを、ことごとく単語の普通の意味のうちにすれでに所有しているかのような錯覚をわれわれは持つからである。[298] 絵や音楽は、その「意味」を完全に「理解する」ことができないことが明白だが、言語表現は「意味そのもの」を表しているのだから「完全に意味が理解できる」と思ってしまうから。しかし、そうなのか。それが次の節で説明される。 ## 〔言葉における思惟〕 > まず第一に、話し手における思惟は表象ではないということ、つまり、はっきりと対象や関係を措定することではない。[298] 「はっきりした対象や関係の措定」は「語るparole」ではない。 > 話しては語るに先立って考えるのではない。話す間に考えるのですらない。語るということが考えることなのである。[298] ということは、聞き手にとってはこうなる。 > 語り手の「思想」は彼が語っている間は空虚である。(略)われわれは説話の必然性を体験するのだが、それを予見することは望んでもできないであろう。説話によってわれわれは魅せられているのである。説話もしくは文章の終わりはいわば呪縛の終わりである。このとき初めて説話や文章についての思念が生じうるのであって、それ以前には説話は即興的に行われ、文章は何の思想も伴わずに理解されていたのである。[298] 文章や語りが終わって、ようやくそういうことかとわかって、すべてが新しく組み直されて、文章を読んだことになる。あらかじめ知っていたものと照合して確認しているわけではない。 ## 〔思惟は表現である〕 ### 表現とはどういうものを指しているのか 「記号」が他のものを指示するのだとすれば、言葉(パロール)は「記号」ではない。 > 言葉と思惟がいずれも主題的に与えられている場合にのみ両者の間にこのような外的関係が成り立つであろうが、実は両者は相互に他方のなかに含まれているのであって、意味は言葉のなかに嵌め込まれ、言葉は意味の外的実存なのである。[301] 2つのものがそれぞれ独立してある場合に、それらを結びつける関係を外的関係と呼んでいる。言葉と思惟はそのようなものではなく、それぞれがそれぞれを内包している。 > 表現の作業が成立した場合には、単に読者並びに著述者自身に一つの備忘録を残すばかりではない。それは意義をして、文章の核心そのもののうちに一個の物として存在せしめ、多数の語からなる有機体のなかで生きるようにさせ、いわば新しい感覚器官として著述家あるいは読者のなかにそれを据えつけ、かくしてわれわれの経験に対して新しい領野もしくは新しい次元を開くのである。[302-303] 言語表現の最大のりえきは「残す」ことではなく、新しい領野、次元を開くこと。つまり、メルロ=ポンティは、表現というものは、「新しく知る」ものであるとしている。また、それが新しいが故に「伝わる」。著述家と読者とで「新しく知る」という同じ現象が起こっている。そして、表現されたものは即自的な存在となり、誰もが「新しく知る」ことができるように自然世界のなかに置かれる。 > しかし日常生活において使用される既成の言語は、明らかに表現の決定的な段階がすでに踏み越えられたことを前提している。われわれがこの起源にさかのぼり、言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見しない限り、そしてこの沈黙をやぶる身振りを描きださない限り、われわれの人間考察はいつまでも表面的なものにとどまるであろう。[305] メルロ=ポンティには、表現としての言語と、その段階を超えてしまった既成の言語がある。これは吉本隆明も同じような言葉遣いをしていた。 表現の段階を超えたものは「記号化」される。 表現の面白さというのは、この踏み越え以前の「ざわめき」があり、「原初的な沈黙をやぶる身振り」として描きだされているものなのだということだろう。 ## 〔身振りの了解〕 怒りに関する記述が面白かった。 > 私は身振りのなかに怒りを読むのである。[306] 「怒り」という心的事実があって、それをその身振りが指し示しているのではない。その身振り自体が怒りであって、他人の怒りを感じているひとは、それを読み取っている。 同じように語も、語自体に意味があり、それを読み取っている。では、どうやって読み取り、了解するのか。 > 私は他人の身振りを知的解釈の作用によって理解するのではない。意識と意識との間の交信は彼らの経験の共通の意味に基づいているのではなく、むしろ逆にこの意味をも基礎づけているのである。[308] > 「了解された」身振りの意味は、身振りの背後にあるのではない。それはこの身振りが描き出すところのそして私が引き継いで自分のものとなすところの、世界の構造と一つである。[308] 他人の身振り、例えば怒りを、私が読み取るのは、その身振りを「引き継いで自分のものとなす」から。この考え方は興味深い。 言語表現が「伝わる」のは、著述者の言語的身振りを読者が引き継いで自分のものとなすことによってである、という解釈で言語表現をすることで何か新しい表現世界に入れる気がする。 そして確かに、これは主観と客観、あるいは主体と客体、能動と受動など「此岸と彼岸」の古典的な二分法に変更を迫ることになりそう。 以上 Share: