【38】千葉雅也「動きすぎてはいけない」ゼミ 第8回 ## 2024年10月19日 大谷隆 ## 範囲 序ーー切断論 0-3 接続的/切断的ドゥルーズ 53ページ10行目から57ページ6行目まで ## ドゥルーズのヒューム主義 0-3節は、この論文の「位置どりを明確にする」[29]ために書かれてきた。従来のドゥルーズ解釈がドゥルーズのベルクソン主義に偏っているが、 > 本稿では、ヒュームの原子論を「解離」のテーマに変換し、それこそが、ドゥルーズにおいてベルクソンに批判的である文脈の核心であるだろう、という解釈を示すことになる。[56] となる。とはいえ、単にベルクソンへの偏重という先行研究たちが「間違っているから棄却する」という言い方をしたいわけではないらしいのが、その後の部分で、このへんが千葉さんらしい。 > こうした(めちゃくちゃな逃走線の危なさへの憧れ)大まかなドゥルーズ(&ガタリの)ポップ化は、彼(ら)自身、望んだことだ。私たちは、これほど**大まかに愛されてきた**哲学の、その**大まかさの細部**に注がれるべき眼差しを改めて研がなければなるまい。[57] 「大まかさの細部」って。 こういう出鱈目に近い文章を、それっぽく読ませて迷い込ませてくれるところが千葉さんの魅力かも。 ## 0−3節を改めて読む。仮で弱い日本。 長かった0-3が漸く終わった。ので、もう一度通して読んでみる。当たり前だけど、最初に読みはじめたときよりも遥かに見通しはよくなっていて、だいたいすんなり追えるが、見通しが良くなった分、逆に浮かび上がってくる不明点というか、不気味なところがあって、それを拾ってみる。 > 日本の批評家たちは、批評という体系的・網羅的であろうとしないアドホックな判断ーー対象に関係する膨大な事情をうまく切り離して論じることーーに即して、リゾームの非意味的切断の重要性を、直感できていたのかもしれない。[29] 批評という体系的・網羅的で**あろうとしない**アドホックな判断。体系的・網羅的で「あることができない」というのではなく、積極的に「仮(アドホック)」であること。それが「日本の」批評家たちの仕事であること。 個人的には、改めてここにとても興奮する。日本の日本性は、「積極的に仮である」と読めば、「真名(まな)=漢字(ますらおぶり)」に対する「仮名(かな)」こそが日本的(手弱女振り、たおやめぶり)であるという永原康史「日本語のデザイン」に通じる。 > 英語圏では、バディウの影響を受けて、次のような解釈も出ている。ピーター・ホルワードによれば、ドゥルーズにとって潜在的なもの(=差異のひとつの世界)は、今ここの世界、事物に同一性がある世界ーーすなわち、「現働的actual な世界(徐々に用い始めている「潜在的/現働的」については0−4で説明する)ーーにとって**絶対の、したがって唯一の外部**であり、それの希求は、要するに「外世界性out-worldliness」の希求という不可能な夢である。 「宇宙人が攻めてきたら、全人類が一致団結できる」という映画「インディペンデンス・デイ」的なことをイメージしたりする。僕たちは、完全には否定しきれないけど(そりゃあ、なんでも起こりうるから)、まず有り得ないだろう仮定に、なぜか賭け金を置いてしまう。 それから、 > ドゥルーズの潜在性はつまり〈世界外的なユートピア〉であるという批判者に対して、ジェイムズ・ウィリアムズらは、潜在性とは、現働的な世界における変革の萌芽なのであって、決して世界外的ではない、と反論している。しかしながら、テクストの事実としてドゥルーズ哲学は、相反する解釈をどちらも許していると判断するしかないように思われるのである(17)。[36] この注釈(17)のジャック・レイノルズの応答。 > レイノルズは、ドゥルーズの一貫性を疑うことでーー「ドゥルーズには、彼自身のエンジンを自分でよく分かっていないときがある(そもそも我々に一貫して自分のエンジンを分かっている者などいるだろうか?)」ーー、潜在性の優先性を強調しつつ、潜在性と現働性の不可分さも認める。[37] これを言い出すと哲学じゃなくなるじゃん、というのが、その後の浅田彰の「哲学者の限界であると言えるかもしれない」ということだろうか。 ともあれ、次回以降の0-4での潜在性/現働性についての解説を読むのが楽しみ。 ## 弱さの哲学 一貫性の無さや中途半端さがだいたい肯定されていくのだけれど、その経緯として、一貫性や統一性、統合性の弊害が大きいからという流れで仕方なく肯定されている感じ。「弱者性」を声高に叫ぶような強弱の裏返しではなく、あくまでも弱気というか。浅田彰の「逃走せよ、逃げ出せ」すら強気に見える。 > 私の考えでは、ポストポスト構造主義の要は、**半面では**、接続よりも切断、差異よりも無関心=無差別、関係よりも無関係、である。このように言うと、まるで寒々とした思潮のように思われるだろうか。しかし、根本的にバラバラな世界にあって、再接続を、差異の再肯定を、再関係づけを模索することが、ポストポスト構造主義のもう半面なのである。[40-41] 半面「と」もう半面。切断と再接続、無差別と差異の再肯定、無関係と再関係づけ。こういう矛盾した両面性は何か思い当たる感じがある。他人の悪いところが気になる時は同じ性質を自身で呈していたりして弱る。 > 切断されつつの再接続、これを「個体化」論において考察するのが、本稿の第二の課題である。個体化とは、事物がひとつの**まとまり**として存在するようになることである。[41] 第二の課題として論じられることも興味深い。一見反対意見の人同士の議論も「そのあたりのこと」を問題にしている点で、同じことに着目している者同士ということになるし、野球も敵味方に分かれて戦うが、同じルールで同じ競技をする仲間同士だ。なんとしても勝ちたいし、敵をやっつけたいと思いつつも、相手がいないと試合ができない。 > ゆえに、(C)本稿では、〈複数的な外部性における個体化〉を、事物それ自体の経験において問うことになる。個体化、それは、諸部分の離散性(バラバラであること)を無みせずに、隙間だらけの身体をかろうじて**まとめる**ことである。[42] 「かろうじて」まとめること。綿菓子のような個体。何かを思わされる。 かしいだり、揺らいだりする平仮名のことを考える。後ろにくる文字によって形が変わる「連綿」もあわせて、平仮名の本質なのだけれど、弱いと言えば弱いその状態のままで何かを発揮している。車の性能をスピードではなく、燃費で際立たせたり、携帯電話にカメラと電子メールをつけたりするような極めて日本的なことをガラパゴス化という言葉でどこにあるかもわからない国の性質として受け入れたり。 ## 曖昧なものの価値 保坂和志の小説でよく子供の頃の話が出てくるのだけれど、あのころ従兄弟とよく一緒に遊んでいた記憶があるが、事実からするとその頃の従兄弟はそのぐらいの年恰好ではありえなかったり、そのころにはその家を出ていたりしたはずだから、隣にいたのは従兄弟ではないのだが、記憶のなかの従兄弟とはこんなことをして遊んだ、みたいな文章があったりする。初めて読んだ時には、こんなのありか!と驚いた。そういうことは調べてから書いたり校正したりするものだと思い込んでいた。事実(最近の言い方だとファクト)と言われているものの価値や強さよりも重視されている何かがある。 この場合は、子供の頃の記憶っていうのは、曖昧で間違っていたりするけれど、なにか素敵なものとして価値づけられている。 ## どうでもいいことと、飽きちゃったこと 一方逆に、どうでもいいことだったり、飽きたことの方面にも思いがゆく。 5年ぐらい前、スマートフォン熱狂のピークみたいな時期に、会話で何かを話すと、聞いてる側からスマートフォンでGoogle検索して事実確認する人がいた。で、事実と異なるといちいち指摘してくれたりする。僕は割と適当な記憶で話すので、よく間違いを正されたのだけれど、僕としては話の筋というか「面白いところ」はそこじゃないから、指摘するなら話が一区切りついてからにしてほしいなどと思ったりしたけど、最近はそう言う人をあんまり見かけなくなった気がする。 これは脱線だけど、時代はもはやApple Watchに移行したと僕は思っていて、人前でスマートフォンを弄る行為の非スマートさが、普及初期の違和感の時期にも増して、むしろ今、目立ってきたというか。あるいはもっと単純に、スマートフォンで検索して確認する行為に、みんな**飽きた**のかも。スキゾキッズ。 正しいか間違っているか、という二分法と同じくらい、どうでもいいかよくないかという二分法がある気がする。間違っているけど、どうでもよくないというケースがあって、それなりに価値が出てきたのではないかというのが、適当なことを言うのが好きな僕の希望的観測。 もう少しダラダラ書きたかったけど、時間切れ。 以上 Share: