【36】メルロ・ポンティ「知覚の現象学」ゼミ 第30回 2024年10月11日 大谷隆 ## 範囲 第Ⅰ部 身体 Ⅴ 性的存在としての身体 〔性欲は「表象」と反射の混合ではなくて一つの志向性である。性的状況における存在〕 〔精神分析学、実在論的精神分析は、「唯心論」への復帰ではない〕 〔性欲はいかなる意味において実存を表現するかーー実存を表現することによって〕 〔性的「ドラマ」は形而上学的「ドラマ」に還元されないが、性欲は形而上学的なものである。それは「超え」られないものである〕 ## 全体 この章は前回読んだ時もそうだったが、とても面白い。これまでの議論が一気につながっていく感じがある。と、同時に読み取りきれない部分もある。特に第四節。もう少し読みたいと思わせる章。 ## 〔性欲は「表象」と反射の混合ではなくて一つの志向性である。性的状況における存在〕 そもそもメルロ=ポンティが目指しているのは、我々にとってのこの世界がどうしてこのようになっているのか、ということを明らかにすること。 > われわれの終始変わらぬ目標は、われわれが空間、対象、あるいは道具をわれわれに対して存在せしめ、わがものとなすところの、原初的機能を明らかにし、身体をこのような占有の場所として記述することである。[260] 空間や存在の前提としての身体を打ち立てたい。客観的空間や物の存在というものを前提として、そこから身体を捉えるのではなく、その逆、自己の身体を前提として空間や存在を考える。「私」というものの原初的機能を実現する場としての身体を記述する。 しかし、それは簡単ではなく、これまでは逆だとされていた。 > 実際、自然的世界は私に対するその存在のかなたに、それ自体で存するものとして与えられ、主体がこの世界に向って自己を開く超越の作用は我を忘れ果て、その結果われわれは、存在するために知覚される必要もないような一つの自然の前に立つことになる。[260] 「私」が世界に向って開かれるという前段を、私自身が忘却し、あたかも、自然的世界だけが先にあったかのように思えてしまうから。 よって、「私」の原初的機能を見ようとした場合、自然的世界ではなく、われわれにとってしか意味と現実性をもたないような領域を見る必要がある。例えばそれが「性欲」である。 性欲は一般には、動物的な本能という自律的な機能とみなされている。つまり、性的表象(例えば異性の裸)と反射(身体的刺激への反応)とで出来上がっているとされている。しかし、そうではない。シュナイダーの症例がその証拠となる。 患者は性的表象と反射のどちらももちあわせていたとしても、その性行為は正常人とは異なったものとなる。 > この患者から消え失せてしまっているものは、自分の前に性的世界を投射し、色情的状況に自分を置く能力、あるいはひとたびこのような状況が下造りされたら、それを維持しあるいは堪能するまでそれに答えるという能力である。[263] 自分の前に性的世界を作り出し、その状況に自分を置く能力が、正常人にはある。これと同じことが、自然的世界が自分の前に現れるよりも前に、「私」に起こっているために、われわれは世界をこのようにとらえ、その中にいることができる。 これによって、性欲の多様性、フェティシズムを説明することができる。ある人にとっては性的状況になるようなことが、別の人にとっては全く性的なものに結びつかないことがある。この多様性は、性的世界をその人自身が作り出しているから生じるもので、本能的な回路(経験主義)や主知主義的な唯一の思惟では説明がつかない。 また同時に、人間にとっては、あらゆるものが性的対象になり得、その状況に「参加」することができるということも予言している。 参加していない場合、世界は「中性」である。 > 陽光や雨は、楽しげでも悲しげでもない。気分を左右するものは、基本的な器官諸機能だけであって、世界は情感的には中性である。[265] 芸術作品に触れても何とも思わない時と、なにかしらが立ち上がる時がある。何を面白いと思うかというのは、何を非「中性」的にとらえるのかの違いとなる。これをメルロ=ポンティは「志向性」と呼んでいる。性的「志向」は、その人に特有な非「中性」的世界への没頭ということになる。 われわれが小説や映画の世界に没入できるのも、この志向性によるものだと説明できる。そもそも現実性自体が「私」による世界への開かれによるものである以上、小説や映画の世界が自然的世界に存在しないようなもの(SFや歴史物など)であっても、これは可能である。 ## 〔精神分析学、実在論的精神分析は、「唯心論」への復帰ではない〕 以上のような議論をすると、ではこの世界はすべて人の意識が作り出したものという主張に似通ってくる。これは極端な観念論であり「唯心論」と呼ばれてきた立場に相当する。 しかし、メルロ=ポンティは唯心論と実存主義を区別する。 唯心論では客観的物理的世界は存在しない。すべては観念の作り出したものである。 実存主義は、客観的物理的な環境を否定しない。 > それ(性的生活)は、精神物理的主体がさまざまな環境に加わり、多様な経験によって自己を固定させ、もろもろの行動的構造を獲得する普遍的な能力なのである。それは一人の人間が一個の歴史をもつようになるゆえんのものである。[267] 環境にある何らかを、自己に統合し、構造として獲得していく能力が人間にはある。 > どれほど僅かな感覚与件といえども、一つの形に統合され、すでに「形態を付与された」状態においてのみ現れる。[269] 「赤」という感覚与件は、「色」という構造とそのなかで「赤」というものにあたる「形態」があって初めて、「赤」だと知れる。 このように、身体と精神の関係は相互的だからといって、唯心論的な関係ではない。また、意識や精神が中心にありそのセンサーとして身体があるのでもない。 ## 〔性欲はいかなる意味において実存を表現するかーー実存を実現することによって〕 失声症、幻像肢、性欲、睡眠はすべて同じ説明ができる。 失声症は共存の拒否を表している。失声症は押し黙ることではない。声を「喪失」するのである。自分が声を持っているという状況に自分を置くことができなくなることである。 > この同意もしくは拒否は、主体を一定の状況に置き、彼が直接支配しうる心的領域を限定するのであるが、これはちょうど一つの感覚器官の取得もしくは、喪失が、物理的領野に属するある対象を、彼が直接把握する範囲のなかに入れたり、そこから取り除いたりするのと同様である。(273) 主体を一定の状況(声がある状況、肢がある状況、性的な状況、睡眠の状況)においておくことができたり、できなかったりすることによって、それらができたりできなかったりする。 アラタも以前はそうだったし、今は葉ちゃんがそうなのだけど、寝入ることがうまくできない。眠たいけれど、眠れない。眠り方がわからない状態になる。抱っこして揺さぶったり、そのまま散歩に出て景色が自動的に流れ映っていくようにし、つまり入眠時のぼんやりした状況を作ってやることによってようやく寝入ることができる。葉ちゃんも、最近は自分で布団に突っ伏して眠りの体勢に入って頑張っているので、近いうちに眠りの状態を自ら作りその状況の中に自分を置くことで睡眠に入ることができるようになるはず。 大人は横になれば大体眠ることができる。この「横になる」は、実際に寝入るのだから、格好だけの寝る「ふり」をしているのとは違う。しかし、単に疲労によって体が休養に入っているというわけでもない。 > 睡眠が「やってくる」瞬間がある。つまり、私が演じてみせる睡眠の身振りの上に睡眠が降り立ち、私が振りをしているその当の状態に、私が実際になりきることに成功する瞬間がある。[276] 寝る体勢を取ることで本当に寝る。この「体勢」は「振り(記号)」ではない、あるいは記号であったとしても「内容」と表現が別ではない。 > 私にとっても、他人にとっても、記号の一つ一つに対して決まった意義が与えられているという、ひたすらそういう条件のおかげで、初めて他人に私の思想を告げ知らせることができるといった、したがってこのような意味においては、真実の伝達を実現しているとは言えない、慣習的な表現手段に至る手前に、表現される内容が表現と別個に存するのではなく、記号そのものがその意味を外部に誘い出すといった、本源的な意義作用の存在をーーやがて明らかとなるように、ーーわれわれは認めねばならないのである。[279-280] 慣習的な指示作用による表現に至る手前の段階において、記号は「接地」していて、それこそが本源的な意義作用である。 ## 〔性的「ドラマ」は形而上学的「ドラマ」に還元されないが、性欲は形而上学的なものである。それは「超え」られないものである〕 羞恥、情欲、愛一般は、人間を自然法則よって支配された機械と見做せば、理解し得ない。つまり、人間の羞恥、情欲、愛一般というものは自然法則に支配された形而下にはなく、形而上学的なものということになる。 しかし同時に性的な状況自体は、自然的身体的なもの(フィジク)を伴い形而下を含む。そのため形而上学的な領域に還元できない。 > 実存はその基本的な構造のために、それ自体で不確定なのだ。つまり実存とは今まで意味をもたなかったものが意味をもつようになり、性的な意味しかもたなかったものが、もっといっぱんてきな意義を獲得するようになり、偶然性が道理となるような作業そのものなのであるが、実存がこのように事実としての状況の引き受けである以上、実存はそれ自体において不確定なのである。[285] このあたりと、その少し前に書いてあることがメルロ=ポンティが独自に踏み込んでいった領域なのではないかと思う。ややわかりにくい。 引用部分は、実存というのは、それまで環境に過ぎなかったものを、自らの世界の中で意義付け、構造をもたせていく運動であって、この構造自体が常に変化し続けることそのものだといっていると思う。これはイメージできる。 さらに、この実存の「引き受け」の運動を「超越」と名付けている。 > 実存が事実としての状況を引き受けて自己の責任のもとに置き、この状況を変容するこの運動を、われわれは超越と名付けよう。[285-286] それまでの自己を「乗り越える」運動が実存なのだから、それを超越と呼んでもよい。 ところで、そのすこし前、 > それゆえ羞恥と無恥とは、主人と奴隷の弁証法でもあるところの、私と他人とにとってもはや人格たる意味をもたなくなることも、あるいは逆に他人の主人となり、私の側から彼を注視することも可能である。だがこの支配は実は袋小路なのだ。というのも、私の価値が他人の情欲によって認められたときには、他人はもはや私が認められたいと願っていたあの人格ではなくなって、自由のない、したがってもはや私にとって問題とならない、魅惑された存在にすぎないからである。それゆえ、私が身体をもつということは、私は対象として見られることもできるが、しかも私は主体として見られることを求めているということ、他人は私の主人でも奴隷でもありうること、これらのことがらを言い表わす一つの仕方なのである。[281] 私と他人の問題であり、とても興味深いところであるが、やや足早な印象を受ける。「主人と奴隷」の比喩がしっくりはこない。このあたりが、のちに「間主観性」につながっていくところかもしれない。 以上 Share: