【38】千葉雅也「動きすぎてはいけない」ゼミ 第6回 2024年8月31日 大谷隆 ## 範囲 序ーー切断論 0-3 接続的/切断的ドゥルーズ 40ページ2行目から46ページ14行目まで ## 構造主義-ポスト構造主義-ポストポスト構造主義 ややこしくなりそうなので、簡単にまとめておく。 **構造主義**は、物事をパターン、システムなどと言い換えられる「構造」によって見ること。これ自体は自然というか、そうだなと思うが、一旦自分が「構造主義の立場」に立つと、すべてのものは「構造」であり、ひいては「全ては一つのシステム」であるというというところまで到達してしまう。「ある一つのシステム=全体」だけがあり、その構造の本質を解き明かせば「真理」を手に入れられる。これは「全体主義」と親和性が高い。 **ポスト構造主義**は、そのような「システム」を突き崩そうとする立場。そこで用いられた主な「手法」が前期デリダの提示した「脱構築」。ある構造の内部から、「構造の綻び(非全体性)の一点を穿つこと」によって、構造を突き崩す。ポイントは「一点」であること。構造の内から外への脱出(外部性、超越性)の哲学。 **ポストポスト構造主義**は、ポスト構造主義が「一点」を穿つことによって、その「一つの点」が今度はまた「真理」化した「否定神学システム」を構成してしまうということを問題とする立場。構造主義が全体主義と親和してファシズムを「援護」してしまったように、ポスト構造主義の「否定神学システム」も「非ファシストの一致団結」といったように、「存在論的ファシズム」=存在のレベルでのファシズムの様相を呈してしまう。内部から外部へ出たが、外部もまた「一つ」ではないか。これをどうすればよいのか。後期デリダと東浩紀は、単数的な超越性から複数的な超越性への道を示した。「内から外へ」を否定するために、また「内」へ戻るのではなく、「内から単一の外へ」出たという「単一性」が問題だとして捉えて、「単一の外から、複数の外へ」向かえばいいと提示した。同じことを別のアプローチで示そうとするのが、ドゥルーズと千葉になる。 ドゥルーズが、構造主義を乗り越えたポスト構造主義に位置しつつも、構造主義的である「形而上学」について、 > 「私は純粋な形而上学者であると感じています」 という言葉を、千葉は、単に構造主義者的である(逆戻りする)とは読まず、むしろ先の「ポストポスト構造主義の先駆者」と捉える視点を提供しようとしている。 ## 2つのポスト > 私の考えでは、ポストポスト構造主義の要は、**半面では**、接続よりも切断、差異よりも無関心=無差別、関係よりも無関係、である。このように言うと、まるで寒々とした思潮のように思われるだろうか。しかし、根本的にバラバラな世界にあって、再接続を、差異の再肯定を、再関係づけを模索することがポストポスト構造主義のもう半面なのである。 ポストが2つある。一つ目のポストは、構造主義に対する「ポスト」である。「接続よりも切断」である。一つの全体として、一つのシステムとしての構造から抜け出すための切断。これまでの書き方であれば「切断A」であり、意味的切断、ツリーからリゾームへの切断である。 もう一つのポストは、そうして構造主義が脱構築され、ただ根本的なバラバラになってしまった状態から、次への状態に向かう「ポスト」であり、その「再接続」のことである。 この「再接続」は、デリダと東の提示を援用すると、〈複数的な外部性における個体化〉となる。バラバラになったものを単に再びつなぎ合わせるのではなく、 > 隙間だらけの身体をかろうじて**まとめる**ことである。[41-42] 単に元通りにつなぎ合わせるイメージ、あるいは元々つなぎ合わされていたイメージを「有機的(オーガニック)」とすれば、ドゥルーズと千葉の見る身体のイメージは「非オーガニックな身体」である。オーガニックは「器官」とも訳される。よって「器官なき身体」となる。 この「有機的なつながり」は、「有意味的なつながり」ともイメージできる。有機体的身体論は、体の各部はそれぞれ有意味的に結びついていて、逆に言えば、部分は一つの全体に帰依しているというイメージにもなる。これは全体主義的な様相にも見えてくる。日本という国を一つの生命体と見立てた「國體」論にも通じる。 千葉とドゥルーズはこういった「有機的」「有意味的」な再接続による逆戻りを避けた「非意味的再接続」を考えている。 この〈複数的な外部性における個体化〉は、とてもワクワクする感じがある。全体に対する「要素」としての個人ではなく、その個人がその個人なりに自己をどうにかまとめるという意味での「個体化」に広がりを感じる。 ## 若きシーサー職人の言葉 若い伝統工芸の職人を追ったテレビ番組のyoutube動画をアラタが好きでよく見る。そこで、若いシーサー職人が取り上げられた。その言葉が印象に残っている。 > シーサーには正解がないのですが、だからこそ自分は正解を出したい。 シーサーに決まった形や目指すべき様相、例えば「シーサーは魔除けなのだから、マジムンに勝てる強さが表現されたのが良いシーサー」といったような価値観はない。作り手によっては、優しいシーサー、可愛らしいシーサーも居る。それらが劣っているというわけではない。普遍的な意味での正解はない。しかしだからといって、一人のつくり手として、どんなシーサーでも良いということではない。師匠や先輩の職人たちは、それぞれに自分のシーサーを目指しているように見える。自分も自分なりの一つのシーサーの価値をどうにかして作り上げて、彼らと並ぶようなものにしたい、ということだと思う。 普遍的な正解が決まらないことは、ポスト構造主義的なバラバラな状態のことだが、だからといって、適当に土を捏ねてそれっぽいのができたので「これも良いシーサーです」とはならず、何かしらをその職人「自体の経験において問う」[41]ことが大事。 ## 浅田的立場の裏側 > 浅田の逃走は、意味的接続/切断**からの切断としての非意味的接続**の、文化的に好ましい面に賭けている。[42] 文章にするとややこしいが、こういうことだろう。 まず、ツリー構造の世界がある。一点を頂点として、その下にピラミッド構造が広がる「ヒエラルキー」の世界。ここでの「接続と切断」は〈意味的接続〉と〈意味的切断〉である。繋がることにも、切れることにも、何かしらの意味がある。象徴が「国家、会社、学校」。会社に行くのも行かないのも何かしらの意味が発生する、入社・入学も退職・卒業・退学も大きな意味を持つ。 浅田はそんなツリー的世界から逃げ出せという。つまり、ツリー的な「意味的接続/切断」自体**から、切断せよ(逃走せよ)**、という。あとの方の「切断」は、実はツリーからリゾームに「接続」することである。この接続が「非意味的接続」である。浅田はこのツリーからリゾームへの「非意味的接続」を「好ましい」とした。 しかし、同時に、好ましくない事態も浅田は「自覚」していた。それが「ウォークマン中毒」のような「自閉的」状態である。浅田は、こっちは良くないとしている。 それに対して、千葉は、 > むしろ「ウォークマン中毒者」こそが--正確に言えば、異なる対象への中毒=依存をザッピングしている状態こそ、スキゾ・キッズの実情ではないだろうか。浅田の言う「真に知と呼ぶに値するすぐれてクリティカルな体験」は、多様に中毒的であるがゆえの、あるいは、多様な「愚かさ」を免れないがゆえの、うっかり切断して/されてしまうということに、依拠しているはずなのである。[46] ポイントは「多様に」である。なにかに熱中して、他のことが手につかなくなり(他のことから切断され)、自閉的状況になる、かと思えば、突然、別の対象に興味を持って今度はそっちに嵌まり込む(接続され)、そうして「複数の」対象の間を「切断/接続」しながら乗り移っていくことこそを指して、ドゥルーズをポストポスト構造主義の先駆者と千葉が呼ぶことになる。この場合の「移り気」で「気まぐれな」切断/接続が「非意味的」。 浅田は、その状態事態は「自覚」していたが、「真に知と呼ぶに値する」ものへの固執があったがゆえに、「てか『真に知と呼ぶに値する』とかマジどうでもいいんだけど」的な、非意味的切断を「好ましく」思えなかった。 ## 千葉文体の魅力 内容的にハードというのは一旦置いたうえで、千葉文のこの面白さはなんだろう。國分功一郎さんや東浩紀さんと比べると、文の「密度」は低い。スカスカしている。國分さんや東さんは、もっと「綿密」であり、親切で、というか、千葉さんと比べると、ちょっとしつこいところがある。でもそれが「熱量」となって、読むうちに盛り上がってくるという良さがある。 一方で千葉さんは、そういう感じではない。スカスカしている。それなのに、読んでいると活性が上がってくる感じがある。いろんなことに自分がつながっていくというか、自分のあちこちが勝手に探索をはじめて行ってしまう感じがあって、ウワーッと忙しい。5ページしか進んでいないのに、ものすごくいろんなことを考えている気分になる。 保坂和志さんの小説を読んでいると、なんだか居ても立ってもいられなくなって、思わず本を放りだして、ウロウロと歩きだしてしまう、あれに似てる。 以上。 Share: