【38】千葉雅也「動きすぎてはいけない」ゼミ 第5回 2024年7月14日 大谷隆 ## 範囲 序ーー切断論 0-3 接続的/切断的ドゥルーズ 34ページ、6行目から40ページ、1行目まで。 ## 前回のあらすじ 「本節では、先行研究に対し、本稿の位置どりを明確にする。」と始まった0-3節。日本の批評家の仕事を改めて評価しつつ、この本の議論の筋道を説明していく。浅田彰がドゥルーズを「切断/接続」の哲学として日本に紹介した。蓮實重彦が「切断と接続」と、「と」を二項対立的に捉えず、分離しつつ並列するものとして強調した。 ドゥルーズ哲学は、主に「接続の哲学」として左派に歓迎された。例えばネグリ&ハート。しかしそれに対する批判もあった。スラヴォイ・ジジェクは、ネグリ&ハートのように連帯を至上とする左翼思想に都合の良い解釈を批判した。 千葉は、それらとは異なるドゥルーズ解釈、非意味的切断(切断B)を重視する立場を採る。 ## 〈存在論的ファシズム〉 ネグリ&ハートに代表されるような「ドゥルーズ主義者」はドゥルーズ哲学をどのように「援用」してきたか。 > 概して「ドゥルーズ主義者」は、耐えざる互いの生成変化において私達は必ず接続されていると考えさせてくれることを、ドゥルーズ&ガタリの美点として指示してきたと思われる。[34] その背景としてあるのが「ファシズムの惨禍」である。 > ファシズムの惨禍を背景として、二〇世紀の現代思想は〈非全体性へ〉という松柏に後押しされてきた。[36] ファシズムの特徴が、個人よりも国家や集団を優先するという意味での「全体主義」にあるとして、その反省から、全体主義批判に傾いた。とにかくファシズムを否定するために「非ファシズム」として全世界の結束を呼びかける、といった動きになった。 さて、そもそもファシズムとは、ウィキペディアによれば、 > ファシズムまたは結束主義とは、イタリアのベニート・ムッソリーニと彼が率いた国家ファシスト党が提唱した思想やイデオロギー・政治運動、および1922年から1943年までの政権時に行った実践や体制の総称である。 > > 「ファシズム」(伊: fascismo)の語源はイタリア語の「ファッショ」(束(たば)、集団、結束)で、更に「ファッショ」の語源はラテン語の「ファスケス」(fasces、束桿)である。 ファシズムを否定するために、「非ファシズムは団結する必要がある」「国家主義的で民族主義的であったファシズムに対して、特定の国家や民族によらない全ての人々が連帯すべきだ」といった思想に対して、ドゥルーズの「接続の哲学」が、あたかも全人類に及ぶ、個人レベルでの「コミュニケーションの必然性」を保証しているかのように読まれたということだろう。 しかし、これこそ、 > ある種の「ファシズム」に似ないだろうか?[35] と、千葉(バディウ)は指摘する。 > バディウの批判は、ドゥルーズが、非ファシストたちを包摂し、必然的にコミュニケートさせる「差異の**ひとつの**世界」を保証する**かのよう**であることに警戒している。接続的ドゥルーズの極端化は、いわば〈存在論的ファシズム〉の観を呈する。[35] 存在論的、つまり、存在というものそのものの議論のレベルで、人はすでに「ファシズム」を負うているということになってしまうのではないか。千葉雅也のツイートを参照すると、 > 僕が『動きす』で「存在論的ファシズム」とか「喜びのファシズム」と呼んで批判した、潜在的にみんなつながってますよというホーリズムとは、存在論的なレベルで「健常性」を押しつけるものだ、という意味で批判されるべきなのだ、ということになる。このように存在論的disability studiesへ。 つまり、人として生まれた時点で、必然的に「みんなつながっている」ということにされてしまう。これに対して千葉は「存在論的ファシズム」と名付け強く抵抗している。 「わたしたち仲間」優先主義である民族主義的ファシズムを否定するために、より前提的なレベルでの強固な全体主義に陥っていることになる。「存在論的ファシズム」から見れば「仲間優先ファシズム」はむしろ人類の「部分」でしかないという逆説になる。 ## 否定神学システム この問題についてを東浩紀はデリダを読解することで議論している(『存在論的、郵便的』)。 デリダー東はこのように考えた。 1. ポスト構造主義(ファシズムの全体性に対して批判しようとした)では、システムの非全体性を言おうとして、システムの全体性の「欠如」を、何らかの「単数的」な概念で示すことを主題にしていた。全体性を否定するためにその欠陥を「一点突破」するというやり方。否定記述によって示そうとした。しかし、それが「否定神学システム」の構造をとってしまう。「全体主義でない」という一つの理念のもとに結束する「否定神学」である。 2. 「異種混交的」な非ファシストたちは、実現しえない(いや、してはならない)究極の望ましい共同化を「理念」としていただき、それへの検診という一点を媒介にコミュニケーションを必然化する。その理念は、無限に細やかな異種混交性への配慮である。しかし、現実には(a)「無限」へ向かうと自認するものと(b)不徹底なもの(「しすぎない」もの)との対立になる。 3. では、どうすればいいか。「全体性」を否定するために、ある一点(単数的)に突破し、外部という彼岸を構想したが、そのまた彼岸として「複数的な外部性」へと進めばいい。 全てが内部化される「全体主義」を突き崩すために、単数的な欠陥をついて外部に至るという思想が、存在論的ファシズムに陥るのであれば、そのさらに逆を言って「複数的な外部」を目指せばいい。「外」に「内」を対立させるのではなく、「単数」に「複数」を対立させるというパースペクティヴを変更(ズレ)させている。 これと同じ理路を千葉はドゥルーズの解釈によってやろうとしている。デリダー東の「複数的な外部」への理路の「変奏」として、ドゥルーズー千葉は「切断A、接続」だけではない「切断B」の重視、別の言い方では、切断対接続の議論を、意味対非意味にズラしている。 > 以上をふまえて、本稿は、戦後の〈非全体性へ〉という旋律を、次のように変奏する。(A)全体性に対する〈単数的な外部性〉という彼岸**のそのまた彼岸への問い**、あるいは逆に、此岸への問いーーデリダー東の否定神学批判などーーを、バディウからドゥルーズへの〈存在論的ファシズム批判〉に対応させる。私は、ドゥルーズにおいてパディウの攻撃がヒットする面をいったん認めた上で、それを打ち消すことのできる諸部分に、掛金を置くだろう。(B)単数的な外部性という彼岸のそのまた彼岸、いや此岸とは、〈複数的な外部性〉である。このことをドゥルーズ(&ガタリ)において、**関係の複数的な非意味的切断**に対応させよう。否定神学的/郵便体という〈デリダー東の二元性〉は、どのように外部性=他者性を思考し、処遇するかという認識論的・実践的な区別であったが、これを受けて本稿では、**存在論的ないし形而上学的に**、接続過剰になった事物/非意味的切断によってバラバラにされた事物、という対比を検討することになる。[39-40] 今回の範囲で、大きな見通しがたったように感じる。そして、現在、多くの「知識人」たちが陥っている落とし穴の存在が明るみに出る予感と、その対処方法への希望がある。 以上 Share: