【36】メルロ・ポンティ「知覚の現象学」ゼミ 第29回 2024年9月13日 大谷隆 ## 範囲 第Ⅰ部 身体 Ⅳ 自己の身体の総合 〔空間性と身体性〕 〔身体の統一性と芸術作品の統一性〕 〔一つの世界の獲得としての知覚的習慣〕 ## 〔空間性と身体性〕 前章では「自己の身体の空間性と運動機能」について見てきた。空間性と運動機能のいずれも、経験主義的な因果(原因と結果)による説明も、主知主義的な反省的分析(どこかに全てを観る視点があって、そこから分析されうるものとして扱う)による説明にも、不備がある。 自己の身体とは、両者の説明によるようなものでは、どうやらない。ではどのようなものであるのか。それをこの章で述べていく。 まず従来、問題とされてきた二つの問題が実は別々の問題ではないということを言う。 > 空間の知覚と物の知覚、物の空間性と物としてのその存在とは、二つの別々の問題をなしているのではない、という事実を自己の身体について初めて確認するのである。[250] 空間と物、そのそれぞれへの知覚は、別々の問題ではない。従来の捉え方では、空間というもののあり方とその中に存在する物のあり方には異なる系統の理解が適応されてきた。空間が「ある」ことと物が「ある」ことは異なっている。空間があってもそこに何も存在しない、といったことが有り得た。空間(の存在)性と物の存在は、別種の問題だった。 しかし、メルロ=ポンティは、「自己の身体」において、この両者は別の問題とは言えないという。 > 身体の空間性は、その身体たる存在の展開であり、身体が身体として自己を現実化する仕方である。 自己の身体が存在することにより、自己の身体が空間を空間として捉えることができる。あるいは、自己の身体や空間を「そうであるように」捉えているそれのことを自己の身体という。 ## 〔身体の統一性と芸術作品の統一性〕 もう少し詳しく言うと、 > ーー私は私の身体の諸部分を一つ一つ集め組み合わせるのではない。この翻訳やこの組合せは、私において一度に決定的になしとげられているのであり、実はそれらこそ私の身体そのものである。 > 私は私の身体の前にいるのではない。私は私の身体のなかにいる。いやむしろ私は私の身体である。(略)われわれはただ単に、われわれの身体の諸部分間の関係と、視覚的身体と触覚的身体との間の相関関係を、静かに見つめるのではなくて、われわれ自身こそ、この腕と脚とを一体化している当のものであり、それらを見ると同時にそれらに触れるものなのである。[253-254] 「それをそれにすること」自体が「私」である。なにが私なのか、私とはどのようなものか、という問いに、「これこれである」と答えられた内容「これこれ」が私なのではなくて、その内容を私だとしている「当のもの」が私である。 これをメルロ=ポンティは芸術作品の話で説明する。 何をもってセザンヌの絵とするか、セザンヌのタッチや描かれた対象やキャンバスや絵の具によってでもなく、絵が言わんとしている意味、鑑賞者の解釈内容でもない。セザンヌの作品を、セザンヌの作品というものにしているのは、その作品自体である。芸術作品は、その作品に対して結びつけられた作者が存在して、その作品-作者の結びついたものによって、芸術作品たり得ている。 全く同じ成分としての絵を他の誰かが作成したとしても、それはセザンヌの作品にはなり得ない。同じように、例えば私という存在を分析し、そのすべての要素を備えた存在をどこからか探し出したり作り出したりしても、それは、私ではない。 私というものは、それを私だとしている当のものである。 ## 〔一つの世界の獲得としての知覚的習慣〕 この総合のされ方によって得られた「私」によって、これまでとは異なる捉え方が可能になる事柄がある。例えば習慣という言葉。 > いまや習慣一般から自己の身体の一般的総合が理解される。そして、身体的空間の分析が自己の身体の統一の分析を見越していたように、運動的習慣のついていわれたことを、あらゆる習慣に押し広げることができる。[256] 杖で対象を探査する行為は運動的習慣であるとともに知覚的習慣である。 盲人ー杖ー外的対象という二段構成で「感覚的与件」を読み取るのではない。習慣がその間接的な読み取りを高速化するのでもない。 習慣とは、そのような二段構成を「免除する」ものである。 > 杖はもはや盲人が知覚する対象ではなく、それ**でもって**知覚する道具なのだ。それは身体の付属物であり、身体的総合の拡大である。 杖を扱える習慣がつくと、その杖は「私の」身体の一部となり、対象ではなくなる。自己というものに組み入れられる。 この自己の拡大は、運動面だけではなく、知覚、例えば色彩というものを習慣によって自己に組み入れるようなことも同様である。 赤という色や、色彩そのものをすでに自己に組み入れた大人にとって、赤色がなぜ赤なのかを分析する必要はない。色彩システムは、自己の知覚に組み入れられていて、物を見ると同時に働いて、その物の色を認識する。 言葉や文字もそうで、それが習慣によって理解できるようになってしまえば、その言葉がなぜその意味なのかを分析する必要はないし、その文字がなんという文字なのかも瞬間的に読み取る。 この話は、もう少し範囲を広げても良いと思う。 例えば「私の家族」という言い方も、自己への組み入れと考えることもできる。 「私の家族」と言う言い方をした場合、私、A、Bという三者がいたとして、Aが自分と家族関係にあり、Bがない場合に、私は、AとBとを対象として比べ、Aに「血縁」という属性が付随しているからAを「私の家族」と言い、Bをそうではないとしているという状態というよりは、Aを拡大された「私」に組み入れ「私とA」の総合と、Bとの間に、自己と外部との境界線を引いている状態を「私の家族」と言っているように思う。 「私の街」「私の国」「私の会社」といった場合に感じる、血の通った感じ、粘着質ななま温かさのニュアンスは、街や国や会社が私の一部に取り込まれているような感じにあるのではないか。だから、その外部に位置する人からすると、単なるラベルや分類の違い以上の疎外感を受けたりもする。 こういった「私」は、主知主義の原点にある「われ」とは根こそぎ違うことがはっきりする。 > 運動能力もしくは知覚能力のシステムたるわれわれの身体は、「われ思う」にとっての対象ではない。[259] 全てを疑い、自己の身体をも対象化し、疎外したデカルトの超越的な純粋理性の「われ」と、メルロ=ポンティの拡大し、外を内へと総合していく実存的「私」との違いである。 > 旧来の運動が新しい運動的存在に統合され、視覚の最初の与件が、新しい感覚的存在に統合される。[259] 随時、新しく統合し直され続ける、変化し続けるものとしての私であり、「それをそれだとする」ことの土台としての私である。 以上 Share: