【37】國分功一郎「スピノザ ー読む人の肖像」ゼミ 第11回 2024-05-28 大谷隆 ## 範囲 第7章 遺された課題ーー『ヘブライ語文法綱要』『国家論』 1 スピノザ晩年のオランダ 2 『ヘブライ語文法綱要』ーー純粋な知的喜び ## 各章第一節はなぜ必要だったか 「1 スピノザ晩年のオランダ」では、1672年のヤン・デ・ウィットとコルネリス・デ・ウィットの虐殺が描かれている。初期のオランダにおいて、共和制政治を目指した近代的試みが、強い王権政治を求める民衆によって暴力的に引きずり戻されている。 この例のように、各章第1節はいつも、スピノザを取り巻く当時の状況とその最中にあるスピノザがどのように執筆し、執筆を中断し、再開したかが書かれている。この第1節は、これまで、各章の本論である哲学論考を開始する前の導入的な印象で読んできた。いわばメインディッシュに入る前の前菜のようなものとして。第7章で終わる本書最後の「第一節」なので、この節がどのような役割を果たしてきたかをここで考えてみたい。 各章の第一節が扱ってきた出来事を簡単に年表にする。 1632年 スピノザ誕生。 1656年 23歳。ユダヤ教コミュニティを破門される。以後5年間、記録のない「闇の期間」。 1662年頃 『エチカ』執筆開始。 1663年 『デカルトの哲学原理』出版。 1665年 『エチカ』執筆を一時中断、『神学・政治論』執筆開始。 1668年 アドリアーン・クールバハ有罪判決。 1669年 『ヘブライ語文法綱要』執筆(國分説)。 1670年 『神学・政治論』出版、『エチカ』執筆再開。 1672年 「災厄の年」ヤン・デ・ウィットとコルネリス・デ・ウィットの虐殺。 1675年 『エチカ』完成。 1676年 『国家論』執筆。 1677年 スピノザ没。 スピノザの人物像として一般的にあるのは、書物と原稿だけを相手にした庶民とは交じらない「孤高の哲学者」を思わせるものだ。『エチカ』の「幾何学的な論証」方式による圧倒的に理詰めで構築される「神」のイメージがそうさせていると思われる。しかし、本書を読んできて描かれるスピノザ像は、そういうものとは違っている。 國分は、スピノザが、『エチカ』を中断し『神学・政治論』を執筆したり、友人の勧めで『ヘブライ語文法綱要』を執筆したりしていることに注目している。第7章では、ヤン・デ・ウィットらの虐殺によってオランダの共和制政治が退けられた出来事と『国家論』執筆のつながりも見ている。 このように、各章第1節で描かれたスピノザ像は、当時のオランダ社会の状況下で、その影響を受けつつ、それに対応するように執筆をしているスピノザの様子をあぶり出している。現実の社会状況や民衆の意識をよく見たうえで、その影響を受けつつも、社会状況からの「リクエスト」に応えながら「ペンの力」で現実社会を変状させていこうとする、今で言うアクティビスト(活動家)の側面が見える。 これは、社会に対して、受動的でありつつも、能動的である態度である。中動態的な態度と言えるのかもしれない。 いずれにせよ、本書の第1章から第7章までの第1節によって、僕のスピノザ像は変状した。スピノザの肖像が、それまでとは変わっていった。 本書のタイトルは『スピノザ ーー読む人の肖像』である。スピノザが著した書籍の読解が「メインテーマ」で、そのためにスピノザの人物像が参照されている、と思ってしまいがちだが、実は、著書の読解(読むこと)を通して、スピノザの肖像に至ること、それも、これまで一般にそう思われがちだった「孤高の哲学者」像を変更することが本書の「テーマ」なのだとしたら、実は、各章第1節こそ、前菜ではなく、むしろメインディッシュということになる。 ここまで読んできて、本書が僕に対して変状させたものは、例えば「自由は条件ではなく、結果として得られるもの」など大きなものがあるが、それ以上に、スピノザ像が変化したことが、確かに大きい。 そして、もう一つ、大きな変更として「読む人」という言葉が持っていた静かで受動的な様を覆すような「読むこと」がある。「読む」というのは、すでに書かれている何かを受け取るというだけではなく、その内部に入り込みつつ、能動的に振る舞うことを指しているのだとわかる。 ## 遺された課題その1「ヘブライ語解釈」 ヘブライ語についての簡単な説明は、 > 古代にイスラエルに住んでいたヘブライ人が母語として用いていた言語古代ヘブライ語(または聖書ヘブライ語)は西暦200年ごろに口語として滅亡し、その後は学者の著述や典礼言語として使われてきた。[ウィキペディア] ということで、ヘブライ語は、口語としてはほぼ死滅しながらも、著述言語として1800年使われ続けている。 スピノザはこのヘブライ語の文法の解説書を『ヘブライ語文法綱要』として書いた。スピノザによれば、 > スピノザはヘブライ語学者たちが聖書の文法を論じるだけで、ヘブライ語という言語そのものの文法を論じていないことを指摘していた。[363] スピノザの言う通りだとすると、これは実はとても大きな問題をはらんでいる。 もしも、ある言語がどのような文法を持っているかを研究する際に、ある特定の宗教の経典のみを対象として、その言語の文法を解釈している、とすれば、どういうことが起こるだろうか。 現在信仰されている「その宗教」の価値観に則った、言語解釈が行われている、ということであり、その言語解釈によって、その宗教経典も理解されているということになる。これは順序が逆転している。現在の価値観から書かれた当時の価値観を作り出してしまう可能性がある。それによって、一種のマッチポンプとして働いてしまうかもしれない。 スピノザの『綱要』に、現在のヘブライ語解釈に変更が加わりうるほどのポテンシャルがあるのだとすれば、ひいてはそのヘブライ語によって書かれている「ヘブライ語聖書(旧約聖書)」を典拠とする宗教の価値観も変更が生じる可能性があることになる。國分の言う「ポテンシャル」の意味はこれぐらいの規模を暗示していて、この『綱要』に対する「今後、ヘブライ語の専門家による更なる研究が大いに期待される」という國分の期待はとても大きいものを見ていることになる。少なく見積もっても、西洋社会の根幹に関わるほどの「遺された課題」と言えるかもしれない。 以上 Share: