【37】國分功一郎「スピノザ ー読む人の肖像」ゼミ 第10回 2024-04-16 大谷隆 ## 範囲 第六章 意識は何をなしうるかーー『エチカ』第四部、第五部 3 『エチカ』第五部ーー自由は語りうるか ## 第三種認識 自分で『エチカ』を読んだときに、今ひとつわからなかったのが第三種認識で、わからないなりに実存主義的な「私」や「他者」の哲学を垣間見ていたが、國分さんがそれをよりはっきりと見せてくれた。 簡単にまとめると、 - 第一種認識は、身体の変状の結果を受け取っているだけ。感情や感覚としての意識。 - 第二種認識は、自然の法則のような共通概念。個人に帰属しない理念であり、理性によって理解するもの。 となる。 - そして第三種認識は、自らの身体の変状の観念を、「自己・神・および物」に関連付ける。この4つの対象の間を経巡るようにして運動する、その運動過程となる。 第三種認識に至るには、まず第一種認識から出発し、第二種認識の形成する概念を自己に浸透させていきながら、それらの「概念の間を絶え間なく運動し続けること」であり、「その運動それ自体」が第三種認識である。 ## 永遠 続いて永遠について。有限な存在である我々がどのようにして「永遠」と関われるのか。身体は必ず朽ち果てるために「身体なき精神」を経由し、その上で、どう身体を捉え直すのか。スピノザは身体と永遠を次のように関連させる。 まず、スピノザにおいて永遠は「とても長い時間」のことではなく、 > 時間とは無関係であって、**いつ**とか**以前**とか**以後**などと言うことはできない。 時間とは無関係であるということから「**ある意味**で空間的な」ものであるとも言い得る。 > 永遠とは、必然性において捉えられたーーある意味で空間的なーー因果関係の面内の全体のことではないだろうか。我々一人一人の身体はその中で原因を持って存在している。 > > 各々の個体の観念は神の永遠の必然性の中に確かに場所を持っている 私の身体がここにこうして存在しているというのは、様々な無数の必然的な原因との関連によってであって、この無数の必然性の関連は、無数に張り巡らされた蜘蛛の巣のような空間的にイメージされるようなもので、しかもこの無数のネットワークは時間制を持たず、すでにつねに、永遠の相としてある。このネットワークはすべての観念を含んでいて、当然、私の身体の観念も含んでいる。だから、我々の身体は、永遠のもとに位置づけられうる。 密教の、大日如来を中心=全体とした曼荼羅のようなものが思い浮かぶ。 ## 直観 つづいて直観。一般に、スピノザの哲学は、第一種認識を想像、第二種認識を共通認識、理性、第三種認識を直観と分類される。しかし、國分は上記のように、第三種認識は第一種、第二種認識のように、固定された単相的なものとしてではなく、第一種、第二種を経巡るように動く、運動そのものとしている。そのため、この「直観」も、知覚を分類したもののうちの一つ、といったものではないはず。 まず、面白かったのが、 > 直観を瞬間と結びつけるのはロマン主義に特有の考え方であるが、スピノザの言う第三種認識をそこから解釈することはできない。[343] たしかに、直観という言葉に、瞬間的な「ひらめき」のような意味合いを観ていた。「雷に打たれたような」と形容されるような、それまでの過程とは無関係な突然の瞬間的認識といったようなものが思い浮かぶ。しかし、これは「ロマン主義特有」なのだという。 > ロマン主義(ロマンしゅぎ、英: Romanticism、仏: Romantisme、独: Romantik、伊: Romanticismo、西: Romanticismo、葡: Romantismo)は、主として18世紀末から19世紀前半にヨーロッパで、その後にヨーロッパの影響を受けた諸地域で起こった精神運動のひとつである。それまでの理性偏重、合理主義などに対し感受性や主観に重きをおいた一連の運動であり、古典主義と対をなす。恋愛賛美、民族意識の高揚、中世への憧憬といった特徴をもち、近代国民国家形成を促進した。その動きは文芸・美術・音楽・演劇などさまざまな芸術分野に及んだ。のちに、その反動として写実主義・自然主義などをもたらした。(ウィキペディア) スピノザの生没は1632年11月24日、1677年2月21日で、17世紀であり、ロマン主義ではありえない。むしろ、ロマン主義に批判された「理性偏重、合理主義」に、近い。 そして、なるほど、「瞬間的なひらめき」に重きを置くような嗜好は、確かにロマンチックである。「雷に打たれたような」恋愛の始まりも実にロマンチックである。瞬間性とロマン主義とをさらりと結びつけてくれた國分さんの注意書きの鋭さにうなる。 こういった瞬間性と直観は、元来、直接的な関係にない。これは大きな発見だった。 > 第三種認識が過程であるということは、直観がある程度の時間を持って形成されることをも意味しているだろう。[343] 直観は、むしろゆっくりしたプロセスなのではないか。ゆっくりと私の変状に伴って(私が変化していくことで)、必然的に、わかってしまっていく、当然のこととして自己の一部をなしていくプロセスを直観というのではないだろうか。 この直観知のイメージによって得られる、ゆっくりとした自他の変状プロセスが、「証明できない確からしさ」を生むことは実感できる。さらに、それが「幸福あるいは至福または自由」と関連するということにも、そうだと言える感じがある。 ## 自由 そして、自由。 > 言葉で説明できるのは能動性までである。自由は言葉で説明できる水準には位置していない。あるいは、自由とは、第三種認識という**意識のあり方がもたらす結果**である。[346] 自由だからなにかができる、といった、自由を「許可、許諾」の意味に取るのは、かなり狭い語義解釈だが、そうでなくても、自由は、その結果何かができるようになる「条件」として捉えてしまう。しかし、國分は、逆に、「第三種認識という意識のあり方がもたらす結果」なのだという。 これは、自由が「言葉で説明できない」というよりも、自由がもたらされるプロセスが、「私」のプロセスであって、個的であるがゆえに、共通概念として規定しようがないということだ。 > 私の意識が私の身体を出発点として私なりに自己と神と物を経めぐって形成していくのが第三種認識なのであるから、その成果は、私にとっては明瞭判明であっても、そもそも言葉を超えている。[342] > だとすれば我々が本当に『エチカ』を理解したと言えるのは、我々自身が『エチカ』の言う意味で能動的に生きて、ある時にふと、「これがスピノザの言っていた自由だ」と感じた時であろう。[346] ここまでが今回の範囲で、これだけでもとても興奮する。しかし、個人的には以下のアプローチが開かれたことによって、國分さんのスピノザ読解は、より大きな収穫をもたらしてくれたと思う。 なぜなら、「私の身体を出発点として私なりに自己と神と物を経巡って形成していく」プロセスを、言葉で記述することは、実はできるからだ(例えば、現象学的記述)。が、これは、「共通概念としての言葉で説明できた」ことにはならないということでもある。 ある人の言葉が、別の人に何かをもたらし、それが必ずしも「説明された」とは言えない場合、しかし、だからといって何も生じていないわけではないのは明らかだ。では、その言語表現によって、いったい「どこに」到達したと言えるのか。いったい「何を」なした、「何が」実現したと言えるのか。 スピノザの知見を借りれば、一つのことが言える。言語表現によって、自由にたどり着いた。自由をなした。自由を実現した。 という可能性が開かれる。 「表現の自由」とは、そういうことではないだろうか。条件ではなく、結果としての自由なのだとしたら、憲法による「保証」は、そのプロセス全体に及ぶ。表現プロセス自体が、そもそも自由という結果をもたらすのであって、表現プロセスが強制的に閉ざされれば、自由には到達しない。 ここで、第五章の1を思い起こす。「神学・政治論」が書かれた動機だ。 > スピノザが言っているのは、「哲学する自由を認めても道徳心や国の平和は損なわれない」ということではない。そうではなくて、「哲学する自由を認めなければ道徳心や国の平和は損なわれる」と言っているのである。[226] 「自由が認められなければ」という句の意味が、条件的なものではなく、結果としての「自由が成立できないのであれば」という意味なのだとしたら、どうか。あらゆる第三種認識プロセスが不全に終わっていることになる。当然、国の平和も、それどころかあらゆる哲学も含む、表現のすべてが、損なわれることになる。 以上 Share: