【37】國分功一郎「スピノザ ー読む人の肖像」ゼミ 第9回 2024-03-19 大谷隆 ## 範囲 第六章 意識は何をなしうるかーー『エチカ』第四部、第五部 2 『エチカ』第四部ーー良心と意識 ## 3つの領域 この、第六章2節は、25の見出しがあり、長い。國分さんはとても丁寧だ。一つ一つの語句や概念を、一般的な使用範囲・意味と、スピノザにおける使用範囲・意味を、その違いを踏まえて、文章を書いている。その丁寧さの分だけ、長くなってしまい、読み手の息が切れてしまう。 ここではあえて雑にまとめてみる。 まず、問題になっている3つの領域がある。 A 17世紀以前の世界(中世以前) B 17世紀以後の世界(近代以降) C スピノザの考えている世界 Aは、社会的規範が強く、個人を優越している。あるいは社会に個人がすっぽりと含まれる。そのため、私の善悪は、世の中の常識(良識)を超え出ない。 Bは、社会的規範よりも、個人が優越していく。そのため、世の中の常識とは異なる、私の善悪があり、常識よりもある意味、重視されている。 Aでは、良心と意識は区別されない。意識が良心から独立したものとして成立していない。私が何かについて意識する時、すでにつねに社会的規範(常識)が作動して善悪はすでに判断されている。 Bでは、良心と意識は区別される。社会的規範(常識)はあるものの、それとは独立に、透明な意識というメカニズムがあり、その意識が、社会的良心(常識)と個人的良心を参照して善悪を判断する。 我々は、もちろん、Bを生きている。 近代の行き詰まりは、Bの個人的な良心参照による個々人バラバラの判断が、社会的良心を維持不能に追い込むことで発生していると言えるかもしれない。これをどうにかするために、Aの中世以前に戻って、社会規範を優越させるという方向は、強い保守主義として現れるだろう。 一方、スピノザはあるべき世界Cをこう考えている。 1 そもそも善悪とは何か。 2 個人の喜び・悲しみの認識ーー快不快ーー(第一種認識)がそのまま善悪ではない(主観的な善悪の認識)。 3 個人レベルではない、普遍的な自然法則自体は、善悪というものがない。それを参照した理性(第二種認識)も、善悪はない(客観的な善悪の認識)。 4 理性によって自然法則を参照しつつ、その上で、私の喜び・悲しみが生ずるプロセス(第三種認識)が善悪である。 どういうことだろうか。 例えば、「これは私の所有物だから、好きに扱って良い」と主張して、物などを乱暴に扱い破壊する人に対して、何をもって悪と言えるのか? ということを考える。 Aの世界では、そのような行為が社会的にどのように規定されているかによって、善悪はつねにすでに決定されている。 Bの世界では、個人の透明な意識が、良心を参照して判断する。この時、単なる私の快不快によって判断すれば、第一種認識による善悪となる。個人の透明な意識が、理性によって、例えば、物それ自体という観点を導入し、物それ自体に価値があるからそれを破壊することは許されない、といった判断になれば、第二種認識による善悪となる。(その物が人類や民族にとって価値があるという意味で「文化財」があり、その損傷に罰則が規定されているが、そういった理路も理性的。) 一般にこのような理性的な判断が「正しい」とされるが、しかし、果たして「自分の所有物だから」という乱暴な主張による破壊行為に対する悲しみが、「物それ自体に価値があるから」「人類全体の財産・資源だから」等で説明できていると言えるだろうか。釈然としない気分になる。 > 客観的な善と悪の認識は、主観的な善と悪の認識に帰着する限りで意味を持つ。[309] 私は、もっと直接的に、あるいは「直観」的に、悲しい。単に乱暴な行為が不快だからという以上に、もっと深く悲しい。 しかしこの深く悲しい気分を、何かしらの規定や規則、法則に照らして説明しきるのはとても困難で、「とにかく悲しいからやめてほしい」としか言えない気がする。この悲しさはとても個人的な「私の感覚」であると同時に、人として誰もが持ちうる、あるいは、持っていてほしい、と思えるようなもので、これがわからないといわれると絶望的な気分になる。 スピノザのいう第三種認識による善悪は、こういう、自分にはダイレクトな直観であると同時に、他人に対しては、理性や感情を総動員し、どうにかして、「普遍性をもたせたい」「説明したい」「伝えたい」と思うような善悪のことなのではないだろうか。 もしも、この「曰く言い難い」直観的で有徳的な善悪の判断を多くの人々が持ち、社会的にも重視される世界になれば、社会があらかじめ規定する善悪(A)や、個人の裁量に委ねられた善悪(B)とも異なる有徳的な世界(C)が出現することになる。これは「もう一つの、選ばれなかった近代」と言っても良いぐらい大きなことのように思う。 ## 言葉の系譜学 良心と意識が区別されていなかったことをどのようにイメージするかを引き続き考えている。これは本当に興味深い。 前回は、「心」という言葉と「心理」という言葉の違いを提示した。「心(こころ)」という言葉には、あたかさやぬくもり、誠実さ、善良さといったニュアンスが含まれているが、「心理」「心的現象」などは、そういった温度感はなく、フラットで透明な「メカニズム」を思わせる。こう考えると、むしろ「心理」という言葉は、「こころ」が欠けた機械的機構(メカニズム)ということになる(行動主義心理学はまさに積極的にそのような立場かもしれない)。 意識や心理といった「透明な」言葉は、近代以降の科学的な「普遍的」観点の成立によって現れたのだとすれば、その影響は他の言葉にも現れているのではないか。造語によって分離していなくとも、その言葉自体のニュアンスに変化がもたらされているものがあるのではないだろうか。思い当たる言葉がいくつかある。 例えば「考える」という言葉は、これ単体では、例えば「数学の問題を考える」といったような「問題の正答を得る」といった透明なニュアンスが思い浮かんだりする。しかし、少し落ち着いて、自分に生じた現象を、自分の中を省みて思い返すと、「私が考える」という状況の殆どは、そのような「問題の答えを得る」というよりは、自らに実際に生じた、生活上の困ったことや、興味深いことに、それに接近を企て、霞の中に分け入り、そこに小さな世界が広がっていくような、毛細血管が張り巡らされていくような、能動的であったり、試行錯誤的であったりするような様相を持ったもので、必ずしも「正解を得たかどうか」というピンポイントな条件を「考えたことの証」とはしない。 仮に、「数学の問題の答えを手に入れる」ような透明な「考える」があったとしても、それが「考える」という言葉で言い表されたすべての状況を覆っているわけではなく、むしろ特殊で狭い領域でしかない。保坂和志はもっとはっきりと、考えるとは、幸せになるように考えることであって、無機的な思考プロセスといったもののことではない、といった趣旨のことを書いている。 同様に「わかる」「知る」なども、「情報を得る」ような透明な状態のことではなく、私の世界が少し広がって、それまでの私自身の状態から変化するような、生きた私の生活への影響を含む言葉だと思い当たる。 「考える」「わかる」「知る」などを、透明なものとして、生きた私の営みから切り離し、それによって「私」に加わるのはせいぜいが「クイズや試験問題の正しい解答」であるかのような、言葉を無機的な領域に閉じ込める言説は、近代や科学の成立によってしか説明できないのではないか。科学や学問を否定したい意識が、逆説的に科学や学問を信仰した言説なのではないか。もともとこれらの言葉は、人々が生きて自らの世界を少しずつ広げていったり、世界をそういうものだと捉える自分の網の目を細かくし、世界をより鮮やかに、自らとより深く交感するものにしようとする「スピノザの意味での喜びを伴った」言葉で、心を静めて観想すれば、実は今もほとんどそのままだと思う。 以上 Share: