【37】國分功一郎「スピノザ ー読む人の肖像」ゼミ 第12回 2024-06-25 大谷隆 ## 範囲 第7章 遺された課題ーー『ヘブライ語文法綱要』『国家論』 3 『国家論』ーー来るべき民主国家論 ## 国家について論じることの理想と現実 今回最終回。どんなふうに本が終わっていくのかが楽しみ。 国家について論じるのに際して、スピノザ(と國分さん)が最初に斬って捨てるのが「ある立場」。 > 哲学者たちはあるがままの人間というよりも、自分たちがそうあって欲しいと願うような人間を論じている。そのため、国家を治めるのに哲学者ほど不適切な者はいないと評価せざるを得ない。[371] そうあって欲しい、その人の描く理想によって人間を論じる人には国家を治めることは難しく、国家のなんたるかを論じることも難しい。国家は理想ではなく現実として捉えなくてはならないということだろう。 スピノザ國分さんも)、国家や人間や社会をそうあって欲しいと願う」ことで、何かしら議論をしているつもりになっている人たちへの苛立ちがあるようにも読める。スピノザは、国家というものを、その国民全員によって成立している当のそれそのものというように捉えているということだろう。「そうあるべきであるもの」ではなく「すでにあるもの」。 スピノザは言葉通り、とても現実的な国家論を展開する。 ## スピノザの国家観 スピノザは国家を三種類に分類する。しかし、どのタイプが最も優れているか、どのタイプを目指すべきか、といった議論をするというよりも、それぞれのタイプの特徴をよく観察し理解していく。 ### 君主国家 > 「たった一人の人間が国家の最高の権利を握る 」形態だが、一人の人間にそのような重荷が担えないために「**最悪の事態**」として > 王の権利の執行を外注された者たちが権力者として振る舞う「最悪の貴族国家」[373] になとする。以下の議論を見れば、この「外注された」という部分にポイントがあるように思える。「この外注」先は、民意が反映されていない。王自体は「民衆によって選ばれた」としても、その王による「随意契約」になる。 ### 貴族国家 統治権をもつ最高会議が、統治権に参加できる者を選ぶ。ここでの「選出」とは、 > ここに言う「選出electio」とは、統治を担うという観点から見たときにそれにふさわしい者、すなわちスピノザの言う**「最良の者optimus」が**存在すると前提した上で**、その者を選び出す手続きのことを指している。最良の者の存在可能性こそが貴族国家の基礎である。[378] ぶ手続き**。この場合の最悪の事態は、 > 国家が最高の危機に瀕すると、人々はおそれによってのみ動かされてしまい、未来も法も顧慮しなくなる。「そしてすべての人々の目は、戦勝によって名声嚇々たる人間に向けられ、彼を法律の束縛から解放し、彼の支配権の任期を(これが最も悪いことである)延長し、全国家を彼に任せるに至る。[384] 延長された期間における支配者は、権力者としての地位にあることの根拠が薄弱であるにも関わらず(戦勝という名声)、「法律の束縛から解放」された無制限の権限を持つことになる。 ### 民主国家 貴族国家と違うところは、 > 最良の者の存在可能性を認めない政治体制。だから、一定の条件さえ満たせば、「最良の者」であるかどうかなど問われることなく、誰でも、統治権への参加が認められる。[378] 民主国家の詳細については書かれていない。 3つの分類自体は比較的よく見るタイプ分わけだが、スピノザが重視しているポイントは独特の鋭さを持っている。 ## スピノザの現実的な視点その1、人間というものの前提 まず前提として、スピノザは、その政治体制の平常時についてはそれほど気にかけていないように読める。國分さんの焦点がそうなっているからなのかもしれないが、要するにようは、どんな体制であれ「うまく行っているときは問題がない」ということだろう。同義反復的な当たり前さがあるが、ある体制が「問題視」されるということは、つまり「問題」が起こっているということである。だから、スピノザはり、その体制や仕組み、システムに対する視点としては、「問題となるような事態へ移行しやすいかどうか」を重要視していが問われるということだろう。 政治体制で言えば、独裁体制であったとしても、素晴らしい独裁者による素晴らしい政治は起こり得る。「独裁「」だから」直ちに悲惨な世の中になるというのは短絡である。 逆に、それほど良くない状態が続いたとしても、それが問題になるほど悪化せずに永続するのであれば、それは良い体制となりうる。 個人的には、この考え方は、健康というものの概念にも似ていると思う。健康というのはある一定の固定的な状態を指しているわけではなく、体調が少し悪化したとしても回復でき、重篤な事態へと進行しないことを言う概念と考えたほうが良いと思う。 こういったことはとても現在的で現実的な印象がある。興味深いことに、現に問題化していないにも関わらず、特殊な条件を仮定した「もしも」の議論をすることが、潔癖症的な「ゼロリスク症候群」として発症し、むしろ、逆に「問題化」しているようにも思う。 スピノザは、この政治体制はこういったことを引き起こしやすい(過去に引き起こし続けてきた)という現実的なポイントに着目している。それ 1つ目は、国家の「実権の担当者」がどのように選ばれているか。しかも、平常時ではなく、緊急時に。 君主国家では、一人の人間では担えないのだから、すでにつねに、緊急事態に陥っていて、そのとき、王が任意の「担当者」を選んでしまう。 貴族国家では、危機に瀕した緊急事態に、「適性が高い」とされる経歴の持ち主に全権を担わせてしまうことになる。 民主国家についての記述はほぼなされていないが、この論点からの類推では、民主国家は、政治への「適性」という概念がないので、平常時も緊急時も、大した違いがない、ということかもしれない。これはかなりラディカルな印象で、平常時も緊急時も、「素晴らしい」対策は取れないが、大失敗しない程度の「そこそこ」でどうにかしていく、ということを受け入れるということかもしれない。 そもそも、「政治」というものに果たして「適性」なるものが有り得るのか、ということも改めて考えさせられる。政治は、社会や国家、集団にとって「生きること全体の舵取り」といったことであるとすれば、その全体性から「適性」は設定できないということかもしれない。スピノザらしい視点。 ## 現実的な視点その2、国家は「集団生活」という国家論の可能性、集団というものの前提 もう一つ、スピノザの興味深い視点が「多数者multitudo」。国家を論じる際に、個人と国家ではなく、多数者と国家として視ている。これはなんとも言えない奇妙な居心地の悪さと、同時に意外な方向への可能性を感じる。 まず、国家を論じる際に「個人」という視点を持たない、ということは、直感的に居心地が悪い。 この居心地の悪さは、例えばどのような政策が良いかを考えようとした時、自分の個人的な事情から出発できない、出発しても政策にたどり着けないと暗示されている、という前提だからだろう。「子供がいる」「年収」「都市部に居住」などという個人的事情を抜きにして、政策について考えなければならないということの困難さに直面する。まず「具体的な思考」が阻害されるかのように思える。 しかし、よく考えてみれば、「小さな子どもがいる」という自分の個人的な条件を一旦保留したうえで、「社会には、子供がいる世帯家族が一定数存在するが、同時に、子供がいない世帯や単身者も一定数存在する」という「多数者」をベースにして考えるということを意味しているのだとすれば、これはこれでありのようにも思える。 また、國分さんは、 > 独立した中立的な意識をもつ個人なるものを前提としないその思想から、我々はいかなる民主国家を、あるいはいかなる政治体制を構想できるのだろうか。[398] と問うているが、この文脈では、個人を「理性的で意識的な存在として捉えない」というところに力点があるようにも読める。つまり、「ぼんやりとした曖昧で、状況に流される半意識」の持ち主、「正解」がケースバイケースで変わる受動的かつ能動的な、中立(超越的?)ではない存在を前提にして、ということだろうか。社会を「雑多な集団」として見るような、どこか未分化な印象を持つ。 その結果として、「納得がいくし、この「多数者」像による政治的アプローチはとても現実的である。 現代においての政治への課題として、それぞれの人のポジションによって異なる政策が支持されてしまうということにあるというのは日常的に感じるものがある。有権者(より正確には「選挙に行く人」)の数的バランスによって「高齢者優遇」であったり、「低所得者優遇」であったりするような政策が取られがちで、つまり、ポピュリズムの問題にも関わっている。 自己のポジションに対する政治的な眼差し(政治家の注目度)が期待されない場合に、そもそも政治への関心が薄れ、投票行動を放棄するといった流れも想定される。 多数者」として、世の中にいる「様々な人々」をベースに考えることが実現するとすれば、「素晴らしく」はなくても、「最悪の事態」を回避できるような政策が選ばれるようになるのかもしれない。 例えば、子連れ世帯は公共交通を利用しなくてもよいように自動運転車のリースに補助が出るとか、飲食店には子供連れ専用個室の設置に補助が出るとか。多様な人たちが共同的に存在する包括的な社会は「素晴らしい」かもしれないが、その「理性的な合意」に到達しないのであれば、想定外の事態で分断が加速するような事態を回避する方が「まだまし」というような。どうなのだろう。 いや、そういう小さな「けちくさい」ことを「現実的」と言いたかったわけではなかった。 自分が「独立」もしていなく、「中立」でもなくて、ぼんやりとした不明瞭で不安定な存在であるということを受け入れることで、従来の「明晰で透明な意識」ではアプローチが難しい構造的問題に対して何らかの可能性が開けるという意味で「現実的」だと感じていたはず。 煮えきらない話、すっきりしない話になってしまうが、同時に可能性もある。 つまり、国家の政治という領域は、個人的な利益や個人の生活に密着したこと、あるいは素敵な将来への展望などにに直接結びつくような「期待・希望(と落胆)」の場所というより、ざっくりと全体としてそんなに悪いことにならないようにしてあって、日々の日常な方向へ行くようにして、個人的な生活に重大な影響が無ければそれでいいという「妥協」の場所として見る方向に、社会は進みつつあるように感じるが、そもそも、国家とはそういうものだったのかもしれない。戦後の経済成長期という稀な時期に育った僕自身が、無意識的に、政治や国家に対して理想や幻想を抱いているという可能性も高い。国家というと、民族や文化など「過去から未来へ」といった遠大な領域を視てしまいがちだが、「集団生活」を大過なく過ごすというフェーズも含まれていて、その重要性や厄介さは身にしみていきつつある。 国家とは、「そうあってほしい姿」ではない「あるがままの」現実の人間が、複数集まって集団生活をすること。そういった「リアルな」視点の国家論をスピノザは書こうとしたのだろうか(そして挫折したのか)。によって政治がなされるということかもしれない。(「無知のヴェール」ジョン・ロールズ『正義論』とも関連するか。) 煮えきらない話、すっきりしない話といえばそうだが、もうすでに、そのような現実を生きている実感もあるといえばある。 スピノザ「国家論」は未完である以上、スピノザ自身による導きはない。それゆえ「遺された課題」なのだが、スピノザ独自の興味深い視点で、議論の前提をセッティングしてあることによって、自分なりに興味深く考えを進めていくことができる。「よいお題」にもなっている。 以上 Share: