【36】メルロ・ポンティ「知覚の現象学」ゼミ 第27回 2024年6月28日 大谷隆 ## 範囲 第Ⅰ部 身体 Ⅲ 自己の身体の空間性と運動機能 〔可能的なものへの方向づけ、「抽象的運動」〕 〔運動企投と運動志向、「投射の機能」〕 〔以上の現象を因果的説明によって視覚的欠陥に結びつけて理解することは不可能である〕 〔件の諸現象を反省的分析によって「象徴機能」に結びつけて理解することも不可能である〕 ## 患者の運動よりも正常人の方が謎 議論の流れを簡単に追う。 シュナイダー(患者)は「具体的運動」はできる。できないのは「抽象的運動」だが、患者は正常人ができることを特殊な方法によって実現する。しかし、それは代償行為である。代償行為は病理的現象である。そのため、気をつけなければいけないのは、この代償行為である特殊な方法から正常人に出来ていることを導き出してはいけない。つまり、患者の特殊な方法を「習慣によって短縮」しているわけではない。 注目すべきは、患者の特殊な方法ではなく、正常人がどのように実現しているかである。 > 少なくとも正常な人間は直接、自己の身体に対して「手掛り」をもっているといわなくてはならない。彼は単に具体的環境におりこまれたものとして自分の身体を自由にしうるだけではない。彼はある手仕事の中に含まれたさまざまな課題に関して状況づけられているだけではない。また彼は単に現実体な処状況に向かって開かれているだけではない。そのうえ彼は、実践的な意義のない純粋な刺激の相関者として、自己の身体をもつこともできる。彼は、自分で自由に選ぶこともでき、また実権者が彼に提起することもできるような、単に言葉の上だけの、虚構の状況に対しても開かれているのである。[192] 正常人は「現勢的運動」のかわりに一種の「潜勢的運動」を呼び起こす。患者は「現実的なもののなかに閉じ込められている」。 > 正常人にあっては運動上のもしくは触覚上の出来事は、いずれも、意識に多数の志向を生ぜしめ、これらの志向は、可能的活動の中心としての身体から、あるいは身体自身にあるいは対象に向かうのであるが、これに反して患者にあっては、触覚の印象は不透明のまま自己自身のうちに閉ざされている。[193] 「志向」とは、意識がなにかに向かうこと。患者にはそれが起こらない。 > 正常人は可能的なものを考慮に入れ、可能的なものはその結果、可能的なものというその地位を離れずしかも一種の現実性を獲得するのである[194] 正常人は、志向が、対象や自分自身に向かう。つまり複数の志向を持つ。それらは「可能的なもの」である。この「可能的なもの」によって、仮想的な現実性を持つことができる。抽象的運動ができるのは、この「可能的なもの」への志向によってである。これは患者の方法よりも「魔術的」。 ## 投射とはなにか 可能的なものによって、仮想的な現実性を持つということを言い換えれば、 > 抽象的運動は、具体的な運動が繰り広げられる充実した世界の内部に、反省と主観性の地帯をうがち、自然的空間の上に、潜勢的なもしくは人為的な空間を重ねる。[197] つまり、自然的空間の上に、仮想的な空間を作り出すことができる。 > 世界は、患者たちにとっては、全く出来上がった、凝固した世界としてしか存在しない。ところが正常人にあっては、様々な企投が世界に極性を与え、博物館のなかの掲示が観覧者を誘導するように行動を導く無数の記号を、まるで魔術のように、そこに出現せしめるのである。[198] 仮想的な空間は自ら作り出した、つまり、自分の内側にあるものを外側に映し出すこと=「投射」によって生じせしめたものである。 ## 視覚や聴覚という言葉で言っているのはいったい何なのか 子供の頃に聴力検査を受けたことがあった。電話ボックスのようなところに入れられ、ヘッドホンを付けて、ボタンの付いたスイッチを持たされた。医者から「音がなっている間、ボタンを押し、音が消えたら、ボタンは離すように」と指示された。そして一人にされた。耳をすませば、なにか「シー、シー」という音のようなものが聞こえだしてきた。それが医者の言っていた音だと思って、ボタンを押したがしばらくするとそれが薄れてきて、そもそもそんな音がなっていたのかどうかあやしくなって、適当なところでボタンを離した。それからまた「シー、シー」という音のようなものが聞こえた気がして、ボタンを押して、また離す。そういうことをしばらくしていた後、かすかに「ピー」という音が聞こえてきて、だんだん大きくなって、あぁこれが医者の言っていた音だったのかと思ってボタンを押した。しばらくして「ピー」音は消えて、ボタンを離した。 これが「聴力検査」だとしたら、何を検査していたことになるのか。思い返せば、「聴力」というよりもむしろ、「どんな音がそれであるか」を把握することそのものの検査に思える。無音とされている状態でも「耳をすませば」何かしらが鳴っているような気になる。それはそもそも「音」なのか。 「聴力」とされているもののなかにすでに、「それがその音である」と特定する「能力」が含まれている。この「それがそれである」とする「能力」を「投射」という。 > 閾の測定が検査しているものは、ほんとうは、感覚的諸性質の特殊化や認識の展開に先立つところの諸機能なのである、つまり、被験者が自己をとりまく事物を、あるいは彼にとって活動性の極すなわち把握もしくは拒斥作用の相手方としてであろうと、あるいは純然たる光景すなわち認識の主題としてであろうと、ともかく彼自身に対してあらしめる仕方なのである。[201] 被験者にとって何であるか、というその「あらしめる仕方」を検査している。「視覚」「聴覚」といったものは、生理学の言うほど自明のものではなく、定義の曖昧な「常識」の流用でしかない。 ## 主知主義的な説明 では主知主義的な説明は可能だろうか。 > 一見ただ一つだけ可能な説明方法が残っているように思われる。この方法は、さまざまな症候から、それ自身として確認されうる**原因**にさかのぼるのではなくて、ある**理由**に、もしくは知的に理解されうる可能性の条件にさかのぼることによって、基本的な障害を再構成するという方法であろう。ーーつまり人間的主体を、その現われの一つ一つのなかに全体的に現存する分解を許さぬ一つの意識として、取り扱うことである。障害を内容に関係づけてはならないということならば、それを認識の形式に結び付けねばならないだろう。[210] つまり主知主義的な説明なら可能なのではないかと。どういう説明になるかというと、患者が抽象的運動ができないのは、「範疇的な態度」を採ることが不可能だから、となる。これは「原因」と言うより「理由」である。 「範疇的な態度」とは、カテゴリー化すること。自分の身体への刺激を分類することとなる。それが可能であるためには、自己の身体をも対象化する必要がある。その場合、「自身」は全くの「意識」になることになる。まさに主知主義的な「自身」である。 こうして、「具体的運動」と「抽象的運動」は以下の様は二分法に分類される。 A「具体的運動」、把握、生理的なもの、即自存在 B「抽象的運動」、指示、精神的なもの、対自存在。 しかし、この区別は実はそうならない。 > 皮膚を刺す蚊と、同じ場所に医師があてる木製の小定規との間の物理的な際は、把握の運動が可能で指示の運動が不可能であることを説明するのに十分なものではない。[213] つまり、蚊に刺されたときは、生理学的説明を採用し、医師に小定規をあてられた時は主知主義的な説明を採用することになってしまう。しかし、生理学的説明と主知主義的説明は折り合う場所がない。主知主義的な意識は、部分的に存在するものではなく、つねに「すべて」を対象化した意識である。主知主義的説明も、生理学的説明と同様に、AとBの両方を説明できなければならない。 > 生理学的説明をすっかり断念するか、それともそれがいっさいであることを認めるか、ーー意識を否定するか、意識がいっさいであることを認めるか、いずれかでなくてはならない。[214] 主知主義的説明も経験主義的生理学的説明と同様に、説明できない。 ## 語彙が深まる 「投射」など、一般的に心理学などで使われている用法を超えて、より原理的な領域にまでそれらの語彙を引き戻してくれる。 投射は「自らの内にあるが認めたくない性質や感情を、自分ではなく他の人あるいは物にあるかのように無意識に感じてしまうこと。投影」といった、何かしら良くないとされる心理状態の説明に使われる。 しかし、メルロ=ポンティは、投射を「自分の内側にあるものを外側に映し出す」といった程度で、色のついていない語彙として使っているように読める。より平たく言えば、「投射とは、自分にとってそれがそれだとすること」といった意味合いで捉えている。幼児が「アカ」という語を学ぶ時に、これが「アカ」なんだ、と自らで語彙を「自然空間」から切り出して「それがそれだとする」ことも「投射」と同じ「機能」だとわかる。つまり「抽象」することにも通じる。 また、即自と対自について、今回とてもよくわかった。即自は物であって、それ自体のなかに閉じ込められている。対自は自らを対象として見ることができ、自己からを超越した視点を持っている。 以上 Share: