2024年5月17日 大谷隆
範囲
第Ⅰ部 身体
Ⅲ 自己の身体の空間性と運動機能
〔位置の空間性と状況の空間性、身体像〕
〔ゲルプとゴールドシュタインのシュナイダーの症例による運動機能の分析〕
〔「具体的運動」〕
2つの空間性
メルロ=ポンティは2つの空間性を提示する。位置の空間性と状況の空間性。
位置の空間性
我々が通常「空間」といった時の空間性。物理的な三次元空間、客観的空間ともいう。
状況の空間性
一方で状況の空間性は、例えば「私が、両手で机によりかかる」という状況で生じる空間性。「手だけが強調されて、私の身体全体は彗星の尾のように手の背後に付き従う」。
状況の空間性は、自己の身体における空間性であり、場所の基点としての「ここ」という意識がある。私が何か対象物の存在を読み取る基点となる「ここ」は、物理的世界のどこにも位置しない。位置の空間性ではないからである。
「ここ」という語は私の身体に対して用いられる場合には、他の位置あるいは外部の座標に対して定められた一つの位置を示すのではない。むしろ基本座標の据付け、身体のある対象への能動的な投錨、課題に向かう身体の状況を意味する。 自己の身体とは図と地という構造の、いつも現在に了解されている、第三の項である。[180]
これに対して反論が想定される。
図と地という構造自体が客観的空間の概念を前提にしている。例えば、身体という地の上に仕草という図があるという体験をするには、手と身体を客観的空間性から導かれる「の上に」という関係で結び付けられなければならない。つまり、図と地という構造は、客観的空間という「普遍的な形式の偶然的な内容の一つ」である。
人は、図と地という構造によって対象を知るのだとすれば、この構造自体は、客観的空間という「形式」における一つの「内容」ではないか。
これに対して、メルロ=ポンティは、しかし、「の上に」というのが身体を持たない主体にとってどういう意味があるのか?と問い返す。客観的空間が本当に客観的なのであれば「上」という方向はどのように意味づけられるのか。
「の上に」という言葉に対して、「人間学的意味をはぎとってしまうと」、他の方向と区別されるルールはなくなる。 これはつまり記号接地問題で、「上」という言葉が持っている、あの「仰ぎ見る」方向感を「客観的空間性」だけではもち得ないのではないか。
人間であれば、自己の身体の空間性によって「仰ぎ見る」ことで接地できる「上」という「方向感」があり、その方向感をもって、逆に、知的な客観的空間が意味を持つことができる。より一般化すれば、形式が内容よりも前にあるのではなく、「実は形式が内容を通して、初めて近づきうるものだからである」。
「上」という言葉が客観的空間の中で意味を持つような、「言葉として成立した形式」は、その身体的実感という内容によって、成立まで漕ぎ着けたものである。
同様に「ここ」という客観的空間における位置はない。状況としての空間性による「ここ」が、「位置の空間性」そのものの構築を開始する基点でもある。
シュナイダーの症例
身体的空間(状況の空間性)と外的空間(位置の空間性、客観的空間)とが、どのように関係しているのか。それは「自己の運動」の分析によって理解できるはずだ。
そのために、シュナイダーという患者の「身体と空間との基礎的な関係を顕わにする病的な運動」を見る。
シュナイダーは、目を閉じたまま「抽象的な」運動を遂行できない。しかし、習慣的な運動はできる。具体的な運動は指示に従ってできる。
鼻を「示す」ことは、鼻を「掴む」ことを許された場合にしか成功しない。つまり、鼻の位置を示すことと、鼻を掴むことは異なる事態である。このことを古典的な心理学は説明できない。なぜなら、古典的な心理学における「場所」は、
場所の意識はいつでも措定的な意識、つまり表象であって、したがって場所を客観的世界の規定としてわれわれに提示する意識だからである。
古典的な心理学では、場所は客観的な位置としてしか想定されていない。これは「ある」か「ない」かのいずれかしかとらない。シュナイダーはこの場所の意識に何らかの問題がある。シュナイダーに可能なのは、
身体的空間を、彼の習慣的な行動の基盤として意識する
ような意識である。客観的空間と身体的空間が異なるものだとして捉えなければ、シュナイダーの症例は説明がつかない。
蚊が刺した箇所を掻くことはできるが、その場所を示すことができないという症例も出されるが、例えば背中を刺されたような場合、おそらく「正常な人」であろう僕の場合も難しいし、「掻く」と「示す」が異なることを実感がある。
正常なひとと喜劇役者は、想像上の状況を現実ととるようなことはしないで、かえって彼らの現実の身体に想像的な場のなか呼吸したり、話したり、必要とあらば泣いたりさせるために、それをその生活上の状況から切り離すのである。われわれが問題にしている患者がなし得ないことは、まさにこのことである。
一歳児の葉ちゃんが、「バイバイをする」のを大人が発見したとき、それは常に「眼の前にいる誰かに向かって手を振りながら、バーバーバーと発声する」ことだった。その仕草を見て「葉ちゃん、バイバイできるようになったんだね」と親は言うが、それを聴いた葉ちゃんは再び、振り返って、先程バイバイをしてみせた保育士向かって、全く同じ仕草をする。誰もいない方向に手を振ってみせるようなことはしない。
「バイバイをする」と大人によって名付けられる運動が、相手を伴わなくても可能になるまでに、数週間ぐらいかかる。葉ちゃんにとってまず、「バイバイをする」ことが、まず「眼の前に現実に存在している相手に向かって手を振りながら発声する」という具体的運動として、ざっくりと獲得され、やってみることができるようになる。その後、眼の前の相手にやるのではなくても、「単に」手を降ったり「バイバイ」と発声するといった行為を抽象的に扱うことができるようになっていくと観察できる。
抽象的運動は、現実ではなく「想像的な場」「見世物としての世界」の中で行われる。
以上