【36】メルロ・ポンティ「知覚の現象学」ゼミ 第28回

2024年7月26日 大谷隆

範囲

第Ⅰ部 身体

Ⅲ 自己の身体の空間性と運動機能

〔「象徴機能」の実存的背景と疾病の構造〕 〔「知覚障害」と「知能障害」の実存的分析と「志向の弧」〕 〔身体の志向性〕 〔身体は空間のなかにはない、それは空間に住む〕 〔新しい意義の運動的獲得としての習慣〕

〔「象徴機能」の実存的背景と疾病の構造〕

主知主義のスタイルというか、やり口としての、「抽象」のイメージがわかってきた。

主知主義的分析は、誤っているよりむしろ抽象的なのである。[215]

われわれの運動の基礎には、「象徴機能」もしくは「表現機能」が横たわっている、ことに主知主義的には、なる。この意味は、運動ができるためには、「象徴」もしくは「表現」が必要である、それらが前提になっている、ということだろう。

主知主義は、「象徴」「表現」は「自己自身に依存する」とし、「象徴や表現が実現される素材から分離した」。これは、たとえば「〇〇を象徴する」「〇〇を表現する」という文章から「象徴」と「表現」を名詞的に取り出し、それら名詞化された「象徴」「表現」が、それ自体が自己に最初から備わっている「機能」としたということだろう。この名詞化が「抽象」という操作に該当している。本来、象徴も表現も、何かしらを象徴する、何かしらを表現する、という運動としてあるはずが、どのようなものでも扱える汎用的な「機能」にまで抽象されている。この抽象化グセが全てに及んでしまっているのが「主知主義の誤謬」ということだろう。

抽象や表現という抽象概念は「すみずみまで透明な意識」によるよるものとなる。

メルロ=ポンティは、「象徴」や「表現」が名詞的機能として抽象される前の段階を見ている。主知主義が前提としているもののさらに前がある。つまり「「象徴機能」そのものの基礎」になるものがある。それを見るために「知性」ですら主知主義では説明できないことを見ていく。

「猫の毛の猫に対するは、羽毛の鳥に対するが如し」[220]

これがシュナイダーら患者には、ただちには理解できない。シュナイダーがこれを理解する方法は、おそらくこのような理路に成る。「毛も羽毛もどちらも表面を覆っていることが分析によってわかる。だから、表面を覆っているものというカテゴリーにいれることで、両者が同様である、と。

このような共通項を分析によって明らかにして両者を同一のカテゴリーに分類する、という仕方は、患者が自分の身体の運動、特に「抽象的運動」を実現する際の「準備運動」[194]を必要とする事情と同じになっている。

逆に正常人は、そのような「分析」や「準備運動」を必要とせずに「直観的に」わかる。

したがって、生き生きした思惟とは、一つのカテゴリーの本へ包摂することではない。カテゴリーは、それが結合する諸項に外的な意義をおしつける。[221]

「椅子の脚」とか「釘の頭」といったメタファーを、「座面から下に伸びた棒状のものが、動物の脚と似た形状と機能を持っている。だから同じカテゴリーに分類できて、同じ表現を採用できる」と患者は理解するが、正常人はそうではない。

〔「知覚障害」と「知能障害」の実存的分析と「志向の弧」〕

「志向の弧」とは、どのようなものか。

対象を直接、直線で指し示すような認識ではなく、ある幅と広がりをもった円弧上の視界で、この視界の下で、対象が見出される。この志向の弧の下で、対象が見えたり隠れたりもする。患者は「知覚障害」つまり、視覚による認識についての障害ではなく、また、「知能障害」つまり、その資格によって得たものの解釈に障害があるわけでもない。「志向の弧」による、対象を捉えるプロセスになんらかの問題がある。逆に言えば、正常人は、「志向の弧」によって対象を捉えている。

〔身体の志向性〕

経験主義か主知主義かという二者択一で、人の知覚を説明できない。これは、身体と意識による二者択一では説明できないことがある、ということと同義で、メルロ=ポンティは、この両者が共にあるような説明の場が必要とされると主張している。

意識とは身体を介して物においてあることである。一つの運動が習得されるのは、身体がこれを理解したとき、つまり身体がこれをおのれの「世界」に統合したときである。[236]

この説明文の中には、経験主義的語彙「身体」「物」「運動」と、主知主義的語彙「意識」「理解」が混在している。この混在的説明が可能になるところが実存である。「身体」と「志向性(心がその物事を目指し、それに向かうこと)」という語彙も、経験主義的語彙と主知主義的語彙の結合になっている。

〔身体は空間のなかにはない、それは空間に住む〕

以上のようなことから、「世界」と「身体」の関係性が、更新される。

それゆえ、われわれの身体は空間のなかにあるとも、時間のなかにあるとも、言ってはならない。身体は空間と時間に住む。「239」

「空間」と「時間」があらかじめ客観的に存在していて、そのなかに「われわれの身体」があるのではない。空間も時間も、そこに住んでいる身体によって初めて成り立つ。

「今」「ここ」は、客観的時間や客観的空間の一点ではない。

〔新しい意義の運動的獲得としての習慣〕

習慣によって新しい身体像に修正、更新されることの説明は、難しい。たとえば、マウス操作、自転車・自動車の運転、楽器の演奏などなど。

この時、マウスや自転車、自動車、楽器・・・は「もはや一つの対象ではなくなっている」[243]

ステッキの使用に馴れようとするときには、それを試みに使って、若干の対象に触れてみる。しばらくたつと、私はそれを「掌中」におさめて、何かが私のステッキの「射程のうち」にあり、何かが外にあるかがわかるようになる。[243]

ステッキが自分自身に含みこまれるような感じだろう。

習慣とは、われわれの「世界への存在」を膨張させるわれわれの能力、あるいは新しい器具をおのれに添加することによって実存を変えるわれわれの能力の表現である。[244]

ここでメルロ=ポンティの言っているのは、「習慣」として成立したあとの一連の動作のことというよりは、習慣になっていくプロセスのことを言っている。前者は主知主義的な「抽象化グセ」による「習慣」で、後者は抽象化されていく実存プロセスということになる。

結局は世界に向かっての私のたえざる運動の通過点としての、[245‐246]

というプロセス状態を指している。

身体が新しい意義によって貫かれ、新しい意義の核心をわがものとしたとき、身体が了解したとか、習慣が習得されたとか、いわれるのである。[248-249]   「意味」という言葉の新しい意味

このあたりは、まさに記号設置問題的な問になっている。

「意味」の意味が、言葉同士の思惟の空間のなかだけのつながり(辞書的な連携)というだけではなく、どこかで、身体的空間に接地していないと、そもそも言葉は生じ得ないし、獲得し得ないのではないか。つまり、「意味」の意味を、言語のみの連携の外に接地させる。

そのために、クリアな主知主義的な思惟空間だけではなく、「疾病にも侵されうる」有限な身体に意味的な核心を置こうとメルロ=ポンティは主張する。

余談、なぜ「頭で考える」と言うのか

余談として。

常識はなぜ頭のなかに思想の座をおくのか[247]

という箇所を読んで連想したことに、なぜ「頭で考える」と言うのか、という疑問が浮かんだ。

たしかに、何かを考えているという意識の時、目の奥の「頭部」がある空間で何かしらが生じているように感じる。

しかし、メルロ=ポンティも暗示しているように、手足で考えるということも有り得るし、たとえば、キーボードを叩きながら作文している際に、手首から先で文章を書いているような感覚になることがある。この場合、「手首から先で考えている」という言い方もできなくはないが、通常は「深く考えずに」とかいう言い方になる。考えるのは「頭で」あって、手足ではないという「常識」によって、そのような言い回しになっているということかもしれない。「考える」ことの重要性が高い現代において、「考えている」か「考えていないか」という大きな問題が、常識に依存して、わりと安易に言い換えられているのかもしれない。

なんとなく思い当たるのは、認識の視覚優位性だ。だいたい何かを捉える際に「目で」捉えることが多い。視覚によって対象が捉えられ、その対象によって考えが促された場合、目の奥の頭部空間に対象が投射されて、それについて「考えている」ような感じになる。この場合、「頭で考えている」というのは感覚と合う。

逆に言えば、生理学的な意味での「脳」の位置はあまり関係がない。というか、「脳」を意識することが難しい。たまたま、頭部空間に「脳」という生理学的器官が収まっているから、考えることと脳とが結び付けられているだけで、生理学的な処理を行っている器官の所在地と「考える場所」との相関は実はあまりないのかもしれない。

そうすると、手首から先で考えたり、足で考えたり、内蔵で考えたり、という言葉遣いも意味をなしてくる気もする。

以上

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