【23】ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』感想

第1回

先日の『無為の共同体』ゼミ、面白かった。西欧哲学なわけだけど、僕は日本人なのでどうしてもわかりにくいところがあって、それはナンシーやフランス哲学に限らずこれまでも感じていた。で、そこのところがなんとなくわかったような気がしたのが今回の思わぬ収穫で、つまり僕は「超越」(内在に対して)というものが自明のものとして、しかも確固たる共通的な認識としてあるということにピンとこなかったんだと思う。
僕にとって「超越」性は、ギリギリどうにかこの世界の突端に立ってそこから何もない無へ一歩足をあげてようやく現れるようなもので、それが恒常的にあるわけではない。
とか考えました。
(大谷)

研究でもなく仕事でもなく「ただ読む」ことを通して本を体験する、という営みに参加した。
もう数日経つというのに、あのときに触れた言葉からはなれられない。少しはなれてみてみたいのに。できない。ここに(僕のところに残っている)言葉を脈略なくただ書き連ねてみる。言葉は、本にあったものなのか、あの日、座った人たちが口にしたものなのか、確かでないけど。そのどちらかだと。こうして書き連ねてみると「ただ読む」というより「僕を読む」みたいな、そんな時間だった、とおもう。おもしろい。いや、おもしろい
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ナンシーは何をしたいのか。
人といるということは、どういうことなのか。
僕が、僕たちに変わるとき、何が起こっているのか。
人の存在と共同体への問いは、同時に解かれるべきものだ。
共同体からこぼれ落ちる個的なものを人間主義的に回収するのではなく、共同体そのものの問いとして捉えなおさなければいけない。
共同体というリアリティがない。
で?なにするの。
人間の本質が人間に内在している。
何度読んでも通り過ぎることができない。
絶対者、単独性の矛盾。
死について、我を失うということ、について。
分有。分離していることこそ結びついていることの証し。
人の存在そのものの見え方を変質させる。
コミュニケーションということ、変わってしまうこと、刻々と同じ人ではいられない感じ。
共同体は体験するもの。
社会は何も引き受けない。
人といることの認識が変わる、と考えたらわかる。
終わりがあるということを覚悟しない集団は危険だ。死を回収したところから、それは、はじまっていたんだ。
死の発育不全。死のもっている個別性、独自性。
どこまでも細かく人間存在に近づいてみる。
我々というものが、どう成立するのか。成立してきたのか。
これが共同体。重大なことが起こっている。
私は死ぬことができない(自分の死として死ねない)。
共同体の基底にあるもの、自分が生まれて死ぬことの呈示。
当たり前のことではないのか。何がどうしたというのか。
うまくいっていない現実社会で、何らかの示唆にはなる。
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(中冨)

第2回

昨日は「無為の共同体」ゼミ。
 やっぱり難解で、結構全力やけどなかなか歯が立たない。特に細部を読み込もうとすると無理がくる。最後の方で、この人の書き方は講演とかで聞けば分かった気になれるけど、読むと難しいんではと、隆が言う。
 ゼミでは珍しく音読してみると、確かになんとなく分かった気になれた。しかも、わたしはどちらかというと音読苦手なのに、読みやすかったし、喜んで読んでしまった。
 ゼミも終わってから話していて、ある内輪ギャグを思い出した。うちの猫のシロはやたら賢くて、思慮深く、干し椎茸を水で戻してしまうほどの変態。
「シロ以外、シロじゃない」
と、シロの声色(?)で喋るというギャグがある。
 確かに、「こんなことシロ言いそうだなー」って思って面白い。
 これは全然、「シロ以外、シロじゃない」という論理的事実を言いたいんじゃなくて、「シロってこんなこと言いそうよねー」って感じとか、「その論理無駄よねー」って感じを出したくて言っている。
「無為の共同体」。
 哲学書だからガチガチに論理で読もうとしたけど、うまくいかない部分がでてくる。こんな感じで話し言葉的に読むと糸口があるのかもしれない。
 そんな、「読み方」みたいなとこに読む糸口があるなんて、結構びっくりしてる。まだそれからちゃんと読んでないからわかんないけど。
 そして、「シロ以外、シロじゃない」ギャグは書くとやっぱぜんぜん違う。ほんとはもっと面白いのに!
(山根)

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