【23】ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』第2回レジュメ

第2回 J=L・ナンシー著 『無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考』

2017年3月11日(土) 山根澪

第一部 無為の共同体(後半)

私は、とどのつまりは一つの体験を指し示そうとしている‐おそらく、われわれが経る体験ではなく、われわれを存在させる体験である。共同体はまだ一度も思考されていないというと、それは、共同体がわれわれの思考を試練にかけるといい、そしてそれが思考の対象ではないということである。[48]

随分わかりにくいのだけど、この部分を読んだときに、ナンシーが「わたしたちがこのようになっている」ということ、それ自体を書こうとしているのだ、というふうに思う。だから、ちゃんと読んだときにきっとわたしはこれがわかるんだというふうに読んでみた。

有限性は共‐出現する[出頭する]、共-出現する意外にないものだと言わねばならないだろう。そしてこの表現を、有限な存在はつねに一緒に、ということは複数で呈示され、有限性は〈共同での存在〉のうちに〈共同での存在〉そのものとしてあらわれる、ということと同時にこのようにして有限性はつねに、共同体の法の聴聞と審判に、というよりはむしろ根源的には法としての共同体の審判に出頭するという意味において理解することにしたい。[52]
何で法として語るんだろう?と思い図を書きました。



特異存在とは個人ではなく、有限な存在である。[50]
有限な存在はまず場所を分かつことによって、おのおのの特異性を延長(略)とする広がり(略)によって実存する。特異性は一つの形態のうちに閉ざされたものではなく‐それは確かにおのれの存在をあげて自らの特異な限界へと触れる‐、特異性がそのようなもの、つまり特異存在(存在の特異性)なのは、もっぱらその延長のみによってであり、非現域性によってでしかない。非現域性はまず、特異存在をその存在そのもの(略)のかなで外化し、特異性を外へと露呈することを通してのみ当の特異性を実存させている。そしてこの外はそれ自体、もう一つの非現域性、もう一つの特異性の露呈‐同じだが別の特異性‐にほかならない、この露呈、この曝しだされる分有はのっけから、いっさいの言語の差し向けに先立つ(そして言語の可能性の第一条件を与える)特異性たちの相互的な問い質しを惹き起こす。[53]
共同体は分離(あるいは防壁)や分別の呈示であるが、それは個人化ではなく、共‐出現する有限性なのである。[54]

このあたりを読んで、特異存在というのは人という単位で扱えないものだということを感じる。個人の個性というように何かを語ると、ある人の中での統一感というところに話がいってしまがちだと思う。でも人間は、少なくともわたしは思いっきり真剣に何かを思考しあるいは書いたあと、読み返して笑ってしまうこともできるし、問い質すこともできる。独り言は、声を出すにしろ、出さないにしろひとりで少なくとも二役こなす。だから、簡単に人として扱うことができない。そんなことを言っているのではないか。

もうひとつ思い出すのがケンカという出来事。あとで「恋人」という話も出てくるけれど、差し迫った状況(共に暮らす、共に経営する)などの状況で、起こりやすい。一人で暮らしている上では、出現することはない何かが、他者によって露呈しはじめる。それは独り言とは、違った限界で出現する。その出現は、様々な形態をとるが、そこで現れた違和は、相互の問い質しを伴う。

私は他者のうちに私を再発見するのでも、私を再認するのでもない。私は、他者のうちに、あるいは他者によって、「私自身のうちで」私の特異性を私の外に置き、それを果てしなく終わらせる他性と他化を体験するのである。共同体とは、他と同が似たものとなっている、つまり同一性の分有となっている特異な存在論的機制である。[61]
限界-限界自体、触れることなのだが-に触れながら、恋人たちはしかし限界を差延する、限界に触れると同時に廃棄する古い神話であり古い欲望である中心が生じないとすれば。歓喜は差延されながら生起する。[70]


自分というものの一部に気づいたとたん、その飛び越えの不安の大きかったほど、あるいは喜びが大きいほど、「私はこうなんです」と言ったとたん、実のところそれを気づき言うまえほどに「私はこう」ではない。

バタイユが主体に割り当てていた場に、(略)、なにもないのではなく、確かに何ごとかがあるのだ。われわれの限界とはこの「何ごとか」あるいはこの「何ものか」にあてる名前を真の意味ではもっていないということである。では、この特異な存在に対する真正な名前を持つことが問題なのだろうか。それはずっとあとになってからやっと訪れる問いだろう。さしあたっては、適当な語が欠けている以上、さまざまな語を動員してわれわれの思考の限界に揺さぶりをかけることが必要なのだ。[46]

いろいろと気になって見てきたけれど、実は今回の箇所で一番最初に印象に残ったのはこの部分だった。記号(適当な語)としてあてるものが何もない場所への思考、そして記述をすすめていくこと。書くということ、思考ということ、そのことは多くの「何故」と言う疑問を伴いながら進行し、「何故」という言葉自体の印象、そして、揺さぶりをかけられる者たちの不安もあってか「無為」とは程遠い出来事として認識している。しかし、その出現の現場、言葉が生まれるところ、を捉えてそのことは無為である、と言っているのではないか。「哲学を問い直す分有の思考」とは、哲学がその出現の現場として「無為」である、あるいは、自分の関心からいけば芸術の出現の現場は無為であると、そう言っているのではないかと思えてくる。そして、共同での存在の輪郭を変化させ不安や恍惚にさらすのは無為から生まれさせられたものだけだ、と言っているようにも思える。

書くことを止めてはならない、われわれの<共同での存在>の描く特異な線が露呈されるがままにせねばならない。[74]
あるいはまた、書きながらたえずおのれを分有するのは共同体それ自身である-しかし共同体はなにものでもない、それは集団的主体ではない。[74]




2017年3月11日 大谷

ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』ゼミ第2回レジュメ
第1部 無為の共同体(後半p46から)

ナンシーは「共同体について思考する」というこれまでなされてこなかったことをやる。ただそれをやろうとすると困難がある。そのことを思考するための「適当な語が欠けている」から。それでも、

少なくともそのこと自体は口にしようと試みなければならない。なぜなら「ただ言語のみが、その限界で、もはや言語の通用しない至高の瞬間を指し示すことができるからである」。それはこの場合、ただ共同体をめぐる言説のみが、おのれを汲み尽しながら共同体にその分有の至高性を指し示すことができるということを意味している。[47]
なのでとりあえず一つ一つの語そのもの(思考の部分的側面)を書くような方法をとっている。

1 共同体とは

すなわち、共同体は私に、私の誕生と死とを呈示することによって、自我の外にある私の実存を開示するのだ。(略)
共同体は有限性を露呈させるのであって、その有限性にとって代わるものではない。共同体とは結局、それ自体この露呈と別のものではないのだ。共同体とは有限な存在たちの共同体であり、それ自体がそのようなものとして有限な共同体である。(略)有限性の共同体なのである。なぜなら、有限性こそが共同体的「であり」、それ以外のなにものも共同体的ではないからである。[49]

(大谷訳)私にとって「私の誕生と死」は私の有限性を示している。その有限性を私に露呈させるものが共同体である。この時、私にとって共同体というものは、有限性の露呈そのものである。有限な存在(その人にとっての有限性を露呈させている)は、その有限性によって共同体となる。それ以外にはない。

2 主体という場所に「ある」もの。個人ではなく特異な存在。


共同体に対して個人はどうなるか。

〈共同での存在〉とは、諸個人それぞれの限界を引き受ける、ある高次の実体あるいは主体を意味するものではない。個人としては私はいっさいの共同体に対して閉じている。[49]

個人(分割しえないもの)が絶ー対者の矛盾(単独で閉じている)に行き当たることはすでに述べられている(p10)。ここで言う共同体を思考するためには用いることができない。そこでナンシーは「特異な存在」という語を、個人という語の代わりに「主体という場所に」置く。

特異存在とは個人ではなく、有限な存在である。[50]

特異性とは、

それ(特異存在)は有限性そのものとして出現するのだーー最後に(あるいは最初に)、その同じ特異性の境界で、他の一つの特異存在と膚を(あるいは心を)触れ合うことによって、その特異性はそのようなものとして、つねに他なるものであり、つねに分有され露呈されている。[51]
諸特異性の上位にあってその共同存在に内在する全体性のなかでは個々の特異性の合一はありえない(略)
このような合一の代わりにコミュニケーションがある。ということはきわめて厳密な意味で、有限性それ自体は何ものでもなく、基底でも本質でも実態でもないということである。(略)
有限性は共ー出現する、共ー出現する以外にないもの[52]

例えば、誰も他人の死を死ねない(特異)。しかし死は死であり、私の死と誰かの死は触れ合う。死は分有されている。

特異性は一つの形態のうちに閉ざされたものではなくーーそれは確かにおのれの存在をあげて自らの特異な限界へと触れるーー、特異性がそのようなもの、つまり特異存在(存在の特異性)なのは、もっぱらその延長によってのみであり、非現域性によってでしかない。その非現域性はまず、特異存在をその存在そのもの(略)のなかで外化し、特異性を外へと露呈することをとおしてのみ当の特異性を実存させている。[53]
君と私(われわれの間で)は、とが並置の価値をもつのではなく、露呈の価値をもっている定式である。共ー出現のうちに露呈されているのは、可能なあらゆる結合にしたがって、「君(と)(は)(まったく別の)私」ということを、あるいはもっと簡単に、君が分有する私を読み取らねばならない、ということである。[54]
このあたりの記述は興味深い。同じかどうかはわからないが、僕の話(括弧書きはナンシーの言葉をやや無理やり充ててみた)だと、僕自身にとって当たり前すぎて意識することすら難しいような例えば、考える、思う、思い出すといったときに自分に生じている出来事すら人と違っていること(限界)が、わかって(延長)、自分とは全く違うし自分では想像すらできないところ(非現域)で「こいつはいったいなんなんだ!?」という感嘆符と疑問符が同時につくようなことが起こる(特異性の露呈)。その人の世界に接触し、それを覗き見したような感じになる。
 この時、必ずしもその人の言っていることを理解=意思疎通したわけでもないのに「あぁこの人ってこうなんだ」と思えることがある(コミュニケーション=通い合い)。「なんなんだ!?」と「こうなんだ」は同じタイミングで起こっている。こういうことは、僕じゃない人がいないと生じ得ない。
 「僕と君」を「僕たち」と言い換えるとき、必ずしも僕と君の共通性を念頭においているわけではなく、僕とはまったく別だけれど、この「あぁ君ってこうなんだ」と思えたその感じをもって「僕たち」と言い得ることもある。

※考えることでいえば、僕が「考えている」とき、僕は「声に出さずに話して」います(思うというのはまた違うけれど)。文末表現まで含んだ状態で考えて(話して)いるので、いわゆる「である」体と「ですます」体では異なった雰囲気で、やや異なった考えになります。ずっと誰でもそうだと思いこんでいましたが、どうやらそうではないとわかって衝撃を受けました。たとえば、景色を見る(言葉は存在しない)ように「考える」人がいます。僕にはできない。僕の中でそれは「考えている」とは言えそうにない。しかし、その人がそうであるということは、その人の書いた文章などを読んだときに「そうでないとこうならないよな」という感じを持つときがあります。視覚的に見えているということは、そこに「ある」のだからいつでも見ようと思えば見える(可能性がある)。話すでは、都度消えていくので、思い出すか、もう一度その前から話す(その時の状態を再現しようとする)以外になく、厳密には別のものになっていると感じます。書くことは保存性と空間性(視認性)という、話として考えているときにはありえないことを出現させます。

コメント(山根)

やっぱり難解で、結構全力やけどなかなか歯が立たない。特に細部を読み込もうとすると無理がくる。最後の方で、この人の書き方は講演とかで聞けば分かった気になれるけど、読むと難しいんではと、隆が言う。

ゼミでは珍しく音読してみると、確かになんとなく分かった気になれた。しかも、わたしはどちらかというと音読苦手なのに、読みやすかったし、喜んで読んでしまった。
ゼミも終わってから話していて、ある内輪ギャグを思い出した。うちの猫のシロはやたら賢くて、思慮深く、干し椎茸を水で戻してしまうほどの変態。

「シロ以外、シロじゃない」

と、シロの声色(?)で喋るというギャグがある。

確かに、「こんなことシロ言いそうだなー」って思って面白い。

これは全然、「シロ以外、シロじゃない」という論理的事実を言いたいんじゃなくて、「シロってこんなこと言いそうよねー」って感じとか、「その論理無駄よねー」って感じを出したくて言っている。

「無為の共同体」。
哲学書だからガチガチに論理で読もうとしたけど、うまくいかない部分がでてくる。こんな感じで話し言葉的に読むと糸口があるのかもしれない。
そんな、「読み方」みたいなとこに読む糸口があるなんて、結構びっくりしてる。まだそれからちゃんと読んでないからわかんないけど。

そして、「シロ以外、シロじゃない」ギャグは書くとやっぱぜんぜん違う。ほんとはもっと面白いのに!

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