【24】ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』上下巻


(アマゾンで書名検索すると安い古本もあるようです)

提出レジュメ
第1回 山根 小林 大谷
第2回 山根 小林 大谷
第3回 小林 大谷
第4回 山根 小林 大谷
第5回 山根 小林 大谷
第6回 小林 大谷
第7回 小林 大谷
第8回 山根 小林 大谷

〈案内文〉

イベントの案内文なのだから、なにかちょっとこう気の利いたことや意味深なことをほのめかす感じでさらっと書けば、興味につられて人が来てくれるんじゃないかと毎回思うのだけど、結局、妙に力の入った精一杯の案内文を書いてしまって、もうむしろ逆に門を閉ざしてしまうということがあります。ありませんか。今回もまた懲りずに自分の精一杯を無様に投げ出してしまうような長文になってしまった。

気負わずに来ていただけたらいいです。みんなで本を読むのって楽しいです。意外なことが起こったりして面白いです。だから読みましょうというだけのことを素直に書けばいいのに一体どうしてこうなるのかと毎回不思議なので、改めて言いますが、みんなで本を読むのって楽しいし、意外なことも起こるし、面白いので、ぜひ来てください。言ってみればほんとにそれだけのことをやっています。

となると僕の無様な精一杯の行き先として残るのは、今回読むデリダの本への僕なりの敬意と挑発だったのだとわかるわけですが、以下、それを付記しておきます。

デリダが本書でやろうとしていることは、西洋哲学まるごと、あるいは西洋まるごとを乗り越えることなのだけど、デリダによれば、この西洋=哲学はロゴス中心主義的・パロール中心主義的であり、エクリチュール(文字言語、書き言葉)を徹底的に貶めてきた。だからパロール(音声言語、話し言葉)にたいするエクリチュールの劣位を、むしろパロールのなかに、つねにすでにエクリチュールがあるということを示し直すことで、それを成す。

ということで、この本は「説明」できた気に一瞬なるのだけど、もちろんこんなことで説明できる本ではない。これでこの本を読んだことにできるなら、せいぜい「訳者あとがき」を読めば十分で、本書を読むこと(レクチュール)は必要ない。

デリダは、パロール中心主義・ロゴス中心主義を、恐ろしくねちっこく様々な方向で突きまくる。驚異的な「ルソーおたく」ぶりが存分に発揮される第二部では、ルソーを(ルソー以上に?)通ることで、中心主義という根源主義の「不成立」をあぶり出していく。読むことによって書くことによって、ルソーを通り過ぎ、自身の基盤である西洋=哲学までもを通り過ぎようとする。ハイデガーが採掘用のドリルでガリガリと掘り抜こうとした西洋という岩盤が、岩盤の硬さゆえに、民族中心主義的脱落者を生んでしまったのとは対称的な柔らかさで。ハイデガーを横目に見るデリダは、哲学者であるというよりも純朴な「哲学おたく」の風情がある。

どうしても説明にならない説明をしようとしてしまうのは、僕がまだこの本をちゃんと読んでいないからなのだけど、方向を変えて、今はとにかく僕がどうしてこの本が面白かったのかを書いてみる。

たとえば、僕自身がパロール中心主義的であることをあばかれたから。「自分が=話すのを=聞く」ことの絶対性を疑っていなかった。デリダは僕に向けて批判を開始している。これにまずドキドキする。

デリダは、書くことの限界を示しつつ、そのために、読むことの限界を実施する。読むことと書くことの限界付近の挙動をつぶさに露わに「書き記す」というのは驚くべきことである。デリダは自らの立つ西洋を限界で読み、書いた。その痕跡がまざまざと残されている。

デリダは自分が乗る土台そのものへの執拗な揺さぶりを、土台から降りるのではなく、また土台から浮遊するのでもなく、その土台に立ちながら遂行していく。西洋というもの、あるいは西洋語・フランス語というものがその土台を土台として構成している以上、必然的に言語への無理強いが生じる。その軋みと悲鳴に僕は魅了される。

さて。

日本語の僕たちが「先を読む」とき「書く主体(誰が書くのか)」は要請されない。「書くという所作」そのものの不在すら問として起動しない。「先」というのは、ただ「今の向こう=未だ」という開いた方向感だけを示している。つまり「対象」も読まれた「後に」出来することになる。「現前している今の状況から未来を想定する」ことを「先を読む」と言い得るのはなぜか。誰にも、書かれてもいない、書くという所作そのものを前提しないものを、僕たちは読んでいるかのように読める。もちろん、あくまでも「読む」ことの方から言い得ることに過ぎないけれど。

英語で think ahead することを read ahead と書き換えられたとして(これって自然なんだろうか。英語に無理強い?)、read としてどのようにイメージできるのだろうか。そのとき、write はどのように問題になっているのか、あるいはならないのか。フランス語においてはどうなのか。

また、日本語で「風景を歌に詠む」とき、「よむ」という営みが、(狭義の?)読むだけでなく、(狭義の?)書くということに重なりうることを直接に示唆しているようにも読める。

日本語の「読む」という語が保持する広さと柔軟さのなかで、僕たちは、比喩として簡単に片付けられない、ある実体を確かに得ている。読むことが、書くことを前提せず、書くことに先行するところまで、何気なくごく自然に、通り過ぎてしまっている。一体、「読む」では、何が生じているのか。

デリダが(レクチュールに対して)エクリチュールに重点を置いて書かざるを得なかったのは、フランス語に、ひいては西洋に、前提があるのかもしれない。書く、書き込む、記す、刻む、分節する、と鎧を脱ぎ捨てていくようにあらわになる「エクリチュール」なる語が振る舞うそこで、日本語は、「書く」という語であるよりもむしろ、読み、読み解く、読み取るという語で、つねにすでに営まれているのではないか。

ゼミでこれから読み始める前だからか、問ばかりが先行してしまう。答を得るために読むわけでもないだろうに。

唐突だけど、本書を一読して、デリダが発し続け、僕が受け取った言葉は〈ちゃんと読もう〉である。現時点でという留保がつくけれど、「グラマトロジーについて」という本でデリダが書かんとしたのは、日本語で言えば〈ちゃんと読もう〉、つまり「グラマトロジー」とは「読み学」がいいんじゃないのかな。日本語だと。

もちろんこんな出鱈目をデリダは書いていないかもしれない。たぶん書いていない。でも、僕たちには読むことができる、としたら。

ともあれ、デリダは書いた。僕たちは読む。
関心を持たれた方、ゼミで出会いましょう。

大谷 隆

※提出レジュメへのリンクはページ上部にあります。

第1回 2018年6月3日(日)
 上巻 第一部第一章 書物の終焉とエクリチュールの開始


第2回 7月1日(日)
 上巻 第一部第二章 言語学と書差学

第3回 8月5日(日)
 上巻 第一部第三章 実証科学としての文字学

第4回 11月4日(日)
   ※9月30日(日)が台風のため延期になりました。これ以後予定も変更になっています。
 上巻 第二部 「ルソーの時代」への序論、第一章 文字の暴力:レヴィ=ストロースからルソーまで 

第5回 12月2日(日)
 下巻 第二部第二章 〈この危険な代補……〉

第6回 2019年1月6日(日)
 下巻 第二部第三章 『言語起源論』の生成と構造 Ⅰ『試論』の位置

第7回 2月3日(日)
 下巻 第二部第三章 『言語起源論』の生成と構造 Ⅱ 模倣、Ⅲ 分節化

第8回 3月17日(日) 13時
 下巻 第二部第四章 代補から本源へ:文字言語の理論

時 間:各回 13時30分から17時ごろ。(第8回のみ13時開催)
   時間のある方は終了後夕食を一緒に作って食べましょう(投げ銭)。

参加費:1回2,000円 
    レジュメ割引(レジュメ提出回)1,000円

場 所:まるネコ堂(京都府宇治市) アクセス

定 員:5人程度

申込: 大谷 隆 (Ohtani Takashi)までメッセージかメール(marunekodo@gmail.com)下さい。

・本を読んできてください。
・各回ごとにレジュメ(形式自由)を提出できます。
・過去のゼミのレジュメはゼミサイトに掲載しています。
・レジュメ割引で参加費半額(1,000円)です。ぜひレジュメを書いてみてください。
・レジュメは各回の終了後、まるネコ堂ゼミのサイトに掲載します。

注意:猫がいます。ゼミ中は会場には入れませんが、普段は出入りしています。アレルギーの方はご相談ください。

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