作成:大谷隆
世界論
世界とはどう把握できるのか。ということから倫理を導く。作品の生なましい存在感だと信じられたものが、じつは事実の生なましさだという錯覚が表出の内部で成り立てば成り立つほど、現実倫理の主張は強力に感じられる。そういう逆説すら成り立つようになる。わたしたちはこのとき世界の壁につきあたっている。その壁こそが重大な倫理の壁なのだ。この壁が突き崩されれば人間性についてのあらゆる神話と神学と迷信と嘘は崩壊してしまう。この壁は理念と現実とが逆立ちしてしまう境界であり、世界(という概念)を把握するばあいに不可避的にみえてくる差異線である。わたしたちはどんなにかこの壁をつき崩し、つき抜けて向う側の世界へでようとしただろう。だがそれに触れ、説きつくすことの煩わしさをたえる忍耐力をもたずに、そこから空しくひき返すということをいままで繰返してきた。吉本は「現在」の様相をどうとらえているのか。
わたしたちの古典近代期の世界把握の像のなかで、いちばん長寿をたもち、また普遍的な意味をもちつづけてきた暗喩は、世界がひとつの完結された書物だということだ。そこでは緒言をみつけられればすべては脈絡をつけることができる。(略)わたしたちはこの世界の系列の混淆と連鎖が、はじめの糸口からおわりの結語まで数珠玉のようにつながっている構造を倫理とよんでいる。けれどこの倫理はもとからあった系列がとりだされたときに解体するか、または変容するほかないものである。[78-79]
わたしたちの世界が、現在解体と脱構築にむかいつつあるというモチーフはどこからくるのか。すぐれた感受力をもった作家たちは作品世界の輪郭を補完したり、また逆に崩壊をなぞったりするのを余儀なくされているのはまことか。また登場人物たちは生のモチーフの喪失をなんとかしなければ存在感を保てなくなっているのか。これについてのわかり易い目印はなにもない。というよりも個人的な資質や配慮についての仕方の個別性に、もうすこしで帰着させられそうなところで、どうしても踏みとどまらなければ、とりだすことはできない。そうかといって世界の輪郭、あるいは容れ物としての世界というところにとどまることができない。そういう微妙なはざまのところに徴候がみつけられるはずなのだ。[98]