【21】吉本隆明『マス・イメージ論』第3回レジュメ

作成:大谷隆

推理論


ポオ「モルグ街の殺人」(1841)、「メエルシュトレエムに呑まれて」(1841)、山尾悠子「夢の棲む街」(1978)、眉村卓「遥かに照らせ」(1981)、芥川龍之介「二つの手紙」(1917)、「歯車」(1927)。

推理とは、

けっきょくわたしたちが〈推理〉とかんがえているものの本質は、はじめに既知であるかのように存在する作者の世界把握にむかって、作品の語り手が未知を解き明かすかのように遭遇するときの仕方、そして遭遇にさいして発生する〈既視〉体験に類似したイメージや、分析的な納得の構造をさしていることがわかる。

ほんとはこの問題は文学上ポオの作品ではじめてみたいに提起され、そこで行きどまったといってよい。現在さまざまの形で〈推理〉の、本質からの逸脱をみているだけなのだ。[62-63]

山尾悠子の「逸脱」は、

わたしたちは「夢の棲む街」の空想に、ありきたりの推理小説よりも豊かな〈推理〉の現在における解体の姿をみている。もう現在の世界ではポオの作品が具現しているような、世界把握の既存性が、未知の手さぐりする語り手の冒険、いわば理性と想像力による弁証法的な冒険と遭遇するといった〈推理〉を描くことはできない。わたしたちは〈世界〉を把握しようとする。すると未知をもとめるわたしたちの現実理性と想像力はこの〈世界〉に到達するまえに、その距離のあまりの遠さに挫折するほかなくなっているのだ。すくなくとも挫折の予感にさいなまれずには〈世界〉をあらかじめ把握することはできない。これがわたしたちの本質的な〈推理〉の当面している運命だ。ひとびとはそれを視ようとはしない。そしてまるであらぬ方向にこの〈世界〉をかんがえているのだ。わたしたちの〈推理〉はけっしてきみたちと妥協しない。きみたちとは和解し難い。そうならばむしろこの作品みたいな〈推理〉の崩壊を想いみたほうがましなのだ。[66-67]

眉村卓

芥川龍之介
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