【21】吉本隆明『マス・イメージ論』第2回レジュメ

作成:大谷隆

停滞論


中野孝次らの「反核声明」への吉本の批判の要点は、

だが中野孝次らの「声明」は普遍的な正義の場所を仮構するあまり、はからずもSFアニメ的な型の感受性と思想の認識にすべり込んでしまっている。感動したり共感したりしようにも、しようがないのである。[39-40]

ということだと思う。SFアニメの例として『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』が挙げられている。それらの方が先行しているということだろう。

共同幻想論や講演録などからわかる文学者に対する吉本の言わんとしていることは、「国家というものに対する反対でなければ、どんな反対も国家に吸収される(から反米ソではなく反国家でないとだめ)。個人幻想である文化芸術のみが共同幻想として政治形態をとった国家に逆立ちしうるのだから、声明なんて出して文学者をやめてないで優れた作品を作ることで、国家に対峙せよ(文学者であれ)」じゃないかな。

本書は、「現在」という作家が作品を生む、という経路で描かれているので、個人の作家レベルではどうにもならないというか、作家も「現在」の「渦中の人」として存在せざるを得ないということだから、作家にできることはただ「現在」を刻印として残すということしかない、ということか。

「普遍的な正義の場所」

この安全で「普遍的な正義の場所」は、その後それこそ「普遍的」に見えるぐらいまで浸透し、やがて分裂し、一部に反動を引き起こす。2016年現在の停滞として、ヘイトスピーチなどを生じさせているが、それらは「普遍的な正義の場所」からはじき出されたホームレスへの「社会のゴミ」視などですでに現れてきていたように思う。「普遍的な正義」が「まっとうな市民」へと上澄みする過程で「そこからはじかれた存在」という沈殿を産み、さらに「そこからはじかれた存在」に対する「普遍的な正義」の視線を産み、という螺旋的循環がある。ただ、この螺旋的循環の一瞬として、新たにはじかれた存在への眼差しが生じる瞬間は「普遍的な正義」をまだ勝ち得ていない状態ではある。こういった指摘自体が吉本の言う「生のままの現実をみよ、そこには把みとるべき「現在」が煮えかえっているという考え」なのかもしれないけれど。
Share: