【21】吉本隆明『マス・イメージ論』第1回レジュメ

作成:大谷隆

まず、この本はいったいどういう本か、ということについて、吉本はあとがきで、

カルチャーとサブカルチャーの領域のさまざまな制作品を、それぞれの個性ある作者の想像力の表出としてより、「現在」という大きな作者のマス・イメージが産みだしたものとみたら、「現在」という作者ははたして何者なのか、その産みだした制作品は何を語っているのか。これが論じてみたかったことがらと、論ずるさいの着眼であった。(略)
そこでこの論稿では、カルチャーまたはサブカルチャーの制作品を、全体的な概念としてかんがえ、そのために個々の制作者とは矛盾するものとして、取扱おうと試みた。(あとがき)
としている。『言語にとって美とはなにか』が「それぞれの個性ある作者の想像力の表出として」みた場合に相当するのだろう。しかしこれは、
「現在」もまた「現在」に矛盾する自己表出(自己差異)を内蔵し
吉本自身もまた「現在」の「渦中の人」であるため難しかった、としている。難しいなかで、吉本が踏みとどまった地点は、

ただ最小限はっきりしていたことは、生のままの現実をみよ、そこには把みとるべき「現在」が煮えかえっているという考えにだけは、動かされなかったことだ。生のままの「現在」の現実を、じかに言葉で取扱えば、はじめから「現在」の解明を放棄するにひとしい。そのことだけは自明であった。そこで制作品を介して「現在」にいたるという迂回路だけは、前提として固執しつづけた。
つまり、本書は、吉本が文学者として「現在」を表現した制作品から「現在」を抽出しようとした、ということだと思われる。個々の作品を通して「現在」のさまざまな有り様を抽出することで、現在という大きな作者のマス・イメージを構造的に示す、ということだろう。そのさまざまな有り様が各論のタイトルになっている。ここでいう「現在」は昭和57(1982)年から58(1983)年。

変成論


登場作品の年代は、カフカ『変身』(1912年)、筒井康隆『脱走と追跡のサンバ』(1971-72連載)、糸井重里・村上春樹『夢で会いましょう』(1981)、高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』(1981)。「現在」を指すのは後の2作品で、『変身』と『脱走』はそこへ至る萌芽として取り上げられる。

カフカの『変身』に変成のイメージの現在性があるとすれば、この変成が分裂病的であり、しかもそれ以外では、ほんの微かにずれても駄目だという点にある。[16] 
カフカよりもっと現在的な筒井康隆の『脱走と追跡のサンバ』の世界では、主人公の「おれ」はどの世界に突きでていっても、またテレビ・カメラのような眼にそのつぎの世界から監視され、けっして監視から解かれない人として存在している。これは被害妄想や追跡妄想の世界に酷似しているのだが、この無限虚構のような世界で、わたしたちが病者になることを踏みこたえているとすれば、監視する眼のついたスタジオ的な世界では、演技者や出演者はじぶんたちが頭のてっぺんから足のさきまでどっぷりと虚構につかっているのだと見做して、監視の眼の向う側の世界を無化しているからだし、また監視の眼のこちら側の受像装置の世界では、スタジオ的な世界の人々は完全な虚構の人間で、スイッチやチャネルを切りかえれば、いつでも部屋から消えてくれたり、別のスタジオ的な世界に転化したりできると見做しているからである。[22-23]

このあたりはさすがに鋭く読み解いていると感じる。いよいよ「現在」を指す『夢で会えたら』『さようなら、ギャングたち』については、

即座に中心にはいり、即座に通過できる。まじめに冗談をいうことで一瞬の倫理の表層をかすめて、つぎの物語に切りかわる。(略)
わたしのかんがえでは、これ以上深層にはいり、これ以上一ヶ所にとどまって倫理の普遍性をとらえようとすれば、現在のイメージの変成の様式的な世界ではすぐに、露骨さに耐えず崩壊するにちがいない。その時間と速度の閾値の境い目の輪郭のところを、この作者たちは言葉で巧みになぞってみせている。この作者たちの言葉の交換価値は映像と等価なのだ。言葉=映像とみなして言葉を使ってみれば、ここでつくられている程度の軽い虚構でも、映像的には重すぎて毒性がひどく耐えられないだろう。[24]

「現在」の変成の目まぐるしさは、表層的にとらえるしかない。毒性が強すぎる。この毒性の衝撃に耐えるには「〈意味〉の比重を軽くする」必要がある。ここに高橋源一郎が登場する。「シニズムと気取りの雰囲気が、どうしても現在のイメージの変成の過程で出てこざるをえない必然だ」としつつも、「わたし」がギャングに詩の作り方をを教えるシーンで、

ここらあたりが作者のモチーフである詩と変成の構図が、折合いをつけた唯一の個所で、気取ったり、ひけらかしたりしないで流露するわずかな現在のイメージ領域をつくっている。[32]

と評価する。「現在」の変成のイメージとは、

だが『夢で会いましょう』や『さようなら、ギャングたち』の世界では、救済の世界のイメージなどはじめから何もない。(略)無意味化された空虚なイメージの世界を、出たり入ったりしてみせるときのスタイルが、見世物のように売りに出されているのだ。(略)もしもわたしたちが突然、どこかで観念のスイッチを切られたとしたら、いくらかの不安を伴った空虚な世界を氾濫させるだろう。そのなかに身をまかせている状態は、肯定する判断力も否定する判断力もうしなって持続されてゆく。ときどきどこかに緒口があって、そこから脱出できれば何とか常態の世界へもどれる気がする。(略)だがやがてしばらくすると、もとの空虚な世界に身をひたしているじぶんにかえってしまう。(略)脱出口は管理の入口である。[33]
この路線を引き伸ばせば、2016年現在の変成のイメージは『おそ松さん』に突き当たる。「無意味化された空虚なイメージの世界を、出たり入ったり」が視聴者の認識できる限界を超えるほどつめ込まれることで、「出たり入ったり」までもが無意味化されている。その上で、ギリギリまで追い詰められた「ひどさ」によって、映しだされている不真面目な映像(イメージ)そのものを突き破り、むしろ「真面目さ」が迫ってくるという転倒を引き起こしている。
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