【21】吉本隆明『マス・イメージ論』第5回レジュメ

作成:大谷隆

差異論


世界論からその「世界の解体」へと向かう道筋として、差異線を引き、差異によって重層的に縮合する過程を吉本は置いている。

縮合論

吉本はそれまで文学(芸術)と呼ばれていたものにたいして、ポップアートやエンターテインメントがどう逆転しようとしているかを、同時代性を持ってどうにか書き留めようとしている。

やむをえずに笑っても、不快感をもっても、異様なこだわりを感受してもおなじなのだ。ただわたしたちがこれらの場面の言語を優れたものだと感じているのはまちがいない。だがこの優れていると感じられる言葉の表出が、どこからくるのかと問うとき、わたしたちはある新しい、異邦的ともいうべき同一性の土台につきあたっている。かつてこういう表現の仕方を、わたしたちは文学としてあまり体験したことはなかった。そういう異質さに直面しているようにみえる。一般的にわたしたちが文学的に優れているとか、文体的に際立っているとかかんがえる要素は、これらの縮合された場面のセリフには、どこにもないようにみえる。むしろそういう概念からいえば非個性的な文体、あるいは文体などは、はじめからないとおもえる文体しかここにはみられない。またもうひとつのことがいえる。これらのセリフの表現は、ただそこに概念の存在感をつぎつぎに置いていくという文体で、主体的にどうしようとか、どう彩色しようとかいうモチーフはすこしも感じられない。(略)言葉は、ただそこに置かれただけのようにおもえる。わたしたちはただその言葉の概念を受容すれば、それだけでよい。これらの言葉の表現を解釈の水準におきかえようとしなければ、疑うべきものは何もない。そのまま受容され、そのまま過ぎていく表現である。そして確かな存在感をもった場面がそこに出現し、消えてゆく。それだけのことだ。ここで優れているという概念は、ポップアートやエンターテインメントの高度化や質的な転換によって、言語がはじめて当面したもののようにおもえる。[133-134]
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