【02】『考える練習』第4回レジュメ

第10講-第12講

2014/10/11 発表:高向伴博

【視点】

本書から、豊かに生きる上での軸を形成するためのヒントを得るという視点から読み・まとめを行った。
WHOにおける健康の定義
健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)

学問は頭でするものではない[226]

→岡潔の議論から・・・・「学問は一般的に頭でするものだと思われているけど、本当は情緒でやるもの」「人間は意識だけで考えているんじゃなくて体全体で考えている」
⇛学問(教養)は、個人が目先の利益に着目して行うものではなく、自己の内面を豊かにするもの?その文脈で捉えると、「どの人が喋ったかが大切であって、何を喋ったかはそれほど大切ではない」[228]、「学校で習う文章とは、意味を伝達するもの。小説の文章は、意味の伝達ではない」。[230
⇨という議論を、知識を得るだけが学ぶことではなく、その人の身体性から溢れるもの「=生き方、生き様」を学ぶことに価値をおくことが学問??予備校、塾といったテクニックを教える教育と、学校教育との違いはここにあるか?
教養を学ぶ価値とは?

根拠に頼らずに思考する

「人が生きているとはどういうことで、死んでいるかはどういうことか」[234]という、本質な問い。とても大事な問い。
「生まれる前も死んだ後も無だっていうのは近代の科学的思考の産物。いま、自分がその枠組みの中に生きているからここにあるものの考え方が全部だと思うが、社会の知の枠組みが変わったら、すべてのことがまったく違う見え方がするようになる。そうすると、生まれる前も死んだ後も無だっていう考え方もやっぱり違うんじゃないか」[236]
→近代科学の考え方は「証明、根拠、論証」可能かどうかが、信用できるかできないかの基準になっている。[237]
→保坂氏は「論証なんかできなくていい」という。
⇨視点の枠組みが、規範を形成し、その規範を疑うことがない。しかし、規範を疑うと、当たり前と思われている価値観は、考え方の1つでしかない。という事実に気がつく。しかし、大衆操作とは、規範を形成し、その規範を絶対的だと信じこませることにある。個人の自由を考えると、その規範から逸脱する、抜け出す、飛び出す視点を持つことが大事になるのでは??

「本質」「美学」を守る[252]

・オリンピックから考えると、「本当に運動神経のいい人たちがここにいるのかって疑問を持った。こんなの面白くないとか、もっとのびのびやりたいと思うような人は、途中で落っこちちゃうようなシステムになっている」
⇨純粋にスポーツを楽しむという行為から、商業的、ビジネスの観点が重視され、力関係から本来のあり方からどんどん離れている。新聞やテレビも同様。
商業的、ビジネス的なものと、スポーツというものがくっついた時に、ビジネス的なものにひっぱられているので、本来スポーツがもつ美学を守ることが懸念されている??
→「将棋が人生から試合になった」という議論から考えることは?
勝ち負けだけじゃなくて、とにかく気持ちいい斬り合いをやりたいと将棋を指す人(非安定型)と、とにかく負けたくなくてガチャガチャ、クリンチの連続みたいな将棋をやる人(安定型)と2種類いる」[259]
⇨私はどちらか?

時間を無駄に使いつづける[284]  

 「安定=将来性がある、年収が高い、安定している」という文脈で使われ、魅惑の言葉。社会の風潮として「子どもの将来を安定で言う」部分がある。[285]
「22歳で就職したとして、定年が60歳なら40年近く、いろいろ職を転々として30歳で就職したとしても、定年まで30年ある。今、30年間、大丈夫な業種なんてない。(だからこそ)、将来の安定で仕事を決めるのではなく、シンプルに何をしたいかで決めればいい」[286]
しかし、学校教育しかり、社会全体がそういう雰囲気になっている。「高度経済成長期モデル」をいまだに信奉している。
そこから離れるには、しっかりとした自分の軸・思考がいるのでは。やりたいことをやっていると言える大人の存在が、希望だが・・・・・

⇨健康に豊かに生きるためのヒントを議論したい。。。。

コメント(山根)

  • 私が鈴木氏のレジュメのまとめ方が私にはできない感じでいいと言うと、それに対し、鈴木氏がその書き方は私が担当で第2回のレジュメからヒントを得たということを聞き驚いた。私がそうしたいと思ったことを自分は結果的に上手くできずにいて、それを他の人が軽快にやっていくというのがいいなと思った。そのやり方を見て、また自分もやりたかった方向へ近づいていくことができると思った
  • 何かに頼らずちゃんと思考することは難しい。例えば、以前テレビをなくした時には意見が言えなくなる喪失感があって、テレビの意見を拠り所にものを言っていたことがわかった。保坂氏の取り上げていたセザンヌの絵は美術史で語られる重要性から見たことがあっても、それと切り離して見たことがあるのかといえば、美術を勉強してセザンヌを知ったときにはもうできなかったなと思う。美術史上の重要性は確かにある。しかし、ただ絵を見ていた頃の、この絵がいいなと思った時の感覚は少し残っていてそういう感覚をほじくり出せないかと考えた。絵に限ったことではないなく誰かに教えてもらった基準を外してたり、聞いたり、読んだりして、そこから自分が考えるものをしっかり捉えたい。

コメント(大谷)

  • 参加者全員の議論から出てきたことだが、本を読んでそれについて話すという行為の中に「ここ(本)から何が言えるか」を探してしまうということが潜んでいる。しかし、鈴木氏がいうように「最初は何も言えないが、ゼミが終わった時には何かが言えた気がする」というのは面白い。どう本を読むのか、そしてそれについてどう話すのか、このゼミのあり方自体にも影響が出ている。 

コメント(鈴木)

  • 今回はこの「ゼミ後のコメント」がなかなか書けなかった。今のこの状態も、「何か適切なことを言おうとしている」ということではないかと思う。とりあえずそんなことから書き始めていると、「今回のゼミの内容」や「第10~12講」について書こうとしているから、「書けない」のではないかと思った。ひととおり、本書の内容は最後まで自分を通過して、その後ゼミのメンバーともやりとりを終えた。どちらかというと、「本書全体を読み終えた」という中で浮かんでくることや、今の自分の状態についてなら書けそうだ(これはレポートに書こうと思う)。この本は、全体を読み終わってみると「今回のゼミの該当箇所」だけを取り出して感想を書こうとすると難しい気がする。もっと全体としてこの本を捉えたい。そんな感じがしている。
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