第7講-第9講
2014/09/16 発表:鈴木陵
第7講 同じことを考え続ける力
長時間、我慢強く考える
それと前に進まなくなったときに、そこでどれだけ長く考えられるかなんだよ。そう考えるようになったのは、将棋の大山康晴の一言を聞いてからなんだけど。[160]
だから、すぐ答えが早見えする人とか、当意即妙に長けた人のことを頭の回転が速いとか賢いとかっていうけど、それは頭の働きの一部分でしかないんだよね。[161]→「3ヶ月間同じことを考えつづけられる」ってどんな感じだろうか。
碁盤の上にイメージを飛ばす
「悩んでいた」じゃなくて、不安とか恐れのようなものなんだよ。悩むって、セコい感じがして僕は嫌いなの。悩むって、すごい個人的な感じがしない?不安や恐れは他の人と共有し得るものという感じがする。ぼくだけの感じなのかもしれないけど、悩みはたいしたものじゃないし、すぐそこに出口がある。[171-172]→人から「悩むキャラだよね」「抱えやすい方だよね」と言われたことを思い出した。悩む・個人的・抱える・共有し得ない…この言葉には何か共通したものを感じる。「悩みはたいしたものじゃない」「出口がある」ってどういうことだろう。
第8講 「じゃあ、猫はどうするんだ」と考える
「歴史に残す」ことに意味はない地震なんて全然関係ないと言われているヨーロッパの人たちは博物館をつくったり美術館をつくったり辞書をつくったり、いろいろなものをまとめて保管しているけど、そういう考え方は、その津波で流されるようなところに住んでいた人たちには本来なかったものなんじゃないか。[186]
だから、何が大事かをうっかり言ったり考えたりすると、「残す」価値観に乗っかって、その価値観のボキャブラリーや概念を使って考えてしまう。これは相当厄介なんだけど。[187]→「残す」ことはお金とも密接に関係しているのではないか?食物を保管し取引を始めたのが貨幣の起源?とすれば、「残す」ことに価値を見いだしているのも「やつら」なのだろうか。
「正しく蹴り続けるしかない」
形のはっきりしないものに接すると、勝手につじつまをつける人がいるんだよね。[192]
現実に出来事の最中にいるときに、それがどんな結果になるかっていう可能性は、3つか4つか必ずある。[193]
振る練習をするかしないとか、そこだけがある。結果なんかわからない。[194]→「不安定さを乗りこなす」視点と共通したものを感じる。著者の言う「考える」とは、根本的な不安定さとそれに伴う不安を薄めてくれるように見える「安定」「シンプルさ」「結果」を疑い、ものごとを丁寧にみる(?)ことを言うのではないか。
「すべてはシンプルに表せる」はウソ
「真理は上から与えられる」と。つまり、「この世には世界を語るシンプルな真実がある」という考え方を、人は幼児期に自然と学習してしまう。だからぼくなんかが、ひとつのイメージにまとまらないバラバラなものをそのまま提示したりすると、何をしているのか全然わからないという人が出てくる。[195]→自分自身の今の暮らし方を人にどう説明するかに苦労することが思い起こされた。「会社員」ではない(雇用されていない)ことは明確な一方、「アルバイト」「フリーター」「フリーランス」「求職者」…社会制度に応じた色々なカテゴリがある中で、自分はどれにも該当する部分があると思う。得体の知れない人と思われるのを恐れ、どこかのカテゴリに収まりたいと思ったり、面倒になって特定のカテゴリだけを取り出して伝えたくなる自分もいる。
第9講 それは「中2の論理」ではないか?
論理を突きつめても意味がないそういうことを僕が考えるようになった最初って、エコロジー問題じゃないかと思う。(略)それが部分として整合性があっても、自然の中でそれを20年とか30年とかやっていくと綻びが出てきたりする。[206]
たとえば近代社会が人をよくしよう、社会をよくしようっていう理想や何かしらの意志によって初期設定されたと考えると、何百年だか時間が過ぎていくうちに今みたいな社会になってしまったけれど、本当は誰もこういうものを望んでいたわけではなかったんじゃないか。(略)いまの社会で利益を得ている人たちだけは、「まあ、いいんじゃないの」みたいな言い方をするんだろうけど(略)そういう社会に「異」を唱える。[207]
向こうの論理は、それは緻密に組み立てた人たちがいるわけだから、そこに論理で切り込んでいっても、結局負かされちゃうと思う。(略)本当は感情のほうが根拠があるんだよ。[208]「賢い中学生」式の考え方
体が「やりたくない」っていう判断をしてるんだよ。[208]
論理とか理屈っていうのはかなり鋭い刃物で、中学とか高校のはじめの頃は、そういう「武器」を手にしたって感じになる[209]
→「身体がサインを出している」という感覚を最近実感したため、ここはとても共感できた。
→ただ、本文中に引用されている磯崎氏の小説の一節は共感しきれなかった…。
コメント(山根)
前回のゼミの資料作りは私が担当だったが、何か上手くできたという感じがしなかった。それどことかいつもより読めないという感じがしていた。ゼミのあと何か素直でなかった、そういう感じを持っていたがどうしていきたいのかよくわからなかった。この鈴木氏の資料や高向氏の発言から、単に○○がわからないときに○○がわからないと言う、この部分は自分の感覚と合わないけどなんなのかわからない、というような単純な質問や意見をしていけばいいんだと思えるようになった。「ちょっとすごいことを言いたい!」と思っていたんだなと思う。それで逆に読めなくなっていた。コメント(大谷)
鈴木氏の抽出した資料から、「残す」ということが「安定、未来、計画、効率、お金」といったこと(ピラミッド)の中枢に位置する概念ではないかと思いあたった。日本と欧米との違いとして「残す」があり、日本は「残さない、残らない」という特徴があるのではないか。僕自身が書籍など文字化されたものに強く引き寄せられるのも、この「残す」ことに対して引かれているのかもしれない。また「残す」に惹かれると同時に、「消える」こと、特に綺麗に何も残らずに消えることに強く惹かれるのは、どちらをも貫く軸に惹かれているとも言える。「問」というものが持つ影響力、射程について「質問すること自体、ものをわかっていないその人の側に引き寄せてしまうもの[154]」は核心をついている。
コメント(高向)
「不安」と「悩み」と「考える」ということについて「悩みはたいしたものじゃないし、すぐそこに出口がある」[171-172]という保坂氏の意見に対して、鈴木氏が「悩みはたいしたものじゃない」「出口がある」ってどういうことだろう。と問いを立てたことについて、みなで話しあった。そのなかで、不安は不安のまま取り扱えばいいのではないかという意見が出て共感した。例えば会議で、「今不安なんです」といえば、その場が馴染んだり、その不安をなくすための方法を皆で考えたということがあったという話もあった。不安を解消するための方法や対策を考えて、その案を提案するというやり方はきりがないという意見もあった。そう考えると、不安に思っていることをそのまま取り扱えば、「悩んでいる」というよりは、ただ「考えている」という行為に近い気がする。「不安」な気持ちになることってあるんだけれど、そのまま、不安なんですと伝えてみようと思った。
質問について
質問をするという行為は、質問する側の興味や関心にもとづいて行われるので、どんな質問にも答えるという姿勢はとても律儀だと思う。だから「その質問には答えたくありません」ということをいう権利が保証されるべき。質問をすることに価値を置くようなことが学校でも教育されるが、それは、危険。質問者の問に答えないといけないという価値観を伝えているから。大谷氏は「質問をする時は、なぜその質問をしたのか、その質問の意図を相手に伝える」と述べていたがどそれはとても誠実だと思う。質問という行為は、質問する側が優位である。なので、その事に自覚的であるべきだと思った。コメント(鈴木)
この日のゼミ以降、自分の抱えていることを「悩み」と捉えたり表現することに「ちょっと待てよ」と思うようになった。「悩み」と表現することで、根っこにある不安がぼやける感じがある。ぼやけるからどうして良いか分からなくなる。これが著者の言う「個人的」ということかなと思う。これは自分が何か大きな判断を迫られる時の感覚に通ずる部分がある。「どうしていいかわからない」という状態は「悩む」に近くて、「こう思っているが、これが不安。こうなるのが恐い」と捉えてみると、出口が見えそうな感じがする。「問題発生の原因をつきとめて、解決策を考える」、「リスクを想定して対策を講じる」という考え方は「正しい」ことだとこれまで思っていた。けれど、ゼミの中で出た「実際には様々な要因が絡んでいるが、原因を【選んでいる】」「◯◯すべき、という考えの根本にあるのは不安や恐れでは」という話に触れたことで見方が変わった。根っこにある「不安」「恐れ」をそのまま差し出さず、勝手に問題を定義したり原因を設定することで、本質とズレた対策を立てることに躍起になってしまうのかもしれない。実は、対策を立てたような気になることの方が危険だったり不毛なのかもしれない。「問題」「対策」という枠ですぐに覆いかぶせてしまわずに、「今ここが不安なんですけど」とそのまま差し出してみたい。