【05】『増補 無縁・公界・楽』第3回レジュメ

六、七、八

2015/03/24 山根澪

六 無縁所と氏寺

もし「公界寺」の住持になろうとするならば「公界僧」にふさわしい「能」-学識や能力を身につけなくてはならない、と定めている。[65]
「無縁」の世界、「公界」に通用するのは、まさしく「芸能」そのものだったのである。[65]
『「芸能」そのもの』という記述に驚きがあった。これまで「芸能」は世俗の世界での一つの要素としてしか捉えられていなかった。「芸能」を持ちながら世俗を生きることは可能だが、「芸能」無しに、無縁の世界に行くことはできない、生きることはできないと思うと「芸能」の位置づけが変った。「能の舞台はもとより、連歌や鞠の会では、その区別はない。そこでは、大名や家臣が「公界」の場に加わっているのである。[76]」とも後にあるが、芸能は一時的に世俗の縁を切らせる力すらある。
もともと法令、判物に、制定・発給者が自らの感情を書き入れることは、決して普通のことではなかろう。(略)戦国大名たちもまた、無縁所の根底にある自らの権力によってもたやすく抑えがたい、なにものかの力の前に、あるときは深い畏敬の念をもってこれに対し、またあるときは居丈高に憐愍をかけるかの如き姿勢で、これに対処しているのである。(略)
自らの立場の弱いことを知ったものほど、「憐愍」の姿勢をとりたがることを知っておかなくてはならない。(略)それは戦国大名の弱さをこそ示すものであっても、決して無縁所の弱さ、あわれさを示すものではない。[272(補注5)]
退職とか中退とかある種のしんどい決断としたときにあわれみを掛けられるということはあったように思う。それは、今思えば流れを断ち切る自分の「強さ」だけど、「大丈夫?」「こんな仕事あるよ」と声をかけられると心がぐらつかされた。

法令・判物というと強いものが弱いものにという頭で読んでしまっていたが、こんな声掛けの延長にあるのかもしれない。

七 公界所と公界者

遍歴する陰陽師は「公界者」であった。しかし、亭主の下人・所従である居杭が、頭を殴られるのを逃れるために、観音から授かった頭巾で姿を隠すほかないのに対し、算置は諸侍である亭主に向かって、「公界者」をなぐるとはなにごとか、と猛然と抗議してやまないのである。[72]
「算置」かっこいいなと思う。職員とフリーランスの違いとかそんなことも頭をよぎる。雇われているときは、ちょっとひどいんじゃないかという言い方ややり取りがあってもある程度仕事を続けられたが、自分自身で仕事に関わろうとすると「猛然と抗議」とまではいかずとも、嫌な感じがよりいっそう目についてくる。
こうした「聖別」された人々(芸能民)が、たしかにさきの安良城氏のような評価を許すような立場に置かれるにいたるまでの社会の変化、そうした状況の元に磨かれていったすぐれた芸能、文化の創造をこそ、われわれは追求する必要がある。[285(補注10)]
「すぐれた芸能、文化の創造」にゼミの今後とか、fenceworksの活動とかを重ねて読んでしまう。なぜ芸能民が憐れまれる立場に陥ってしまったのかその社会の変化は気になるところ。

八 自治都市

この堺の屈服は、「公界」「無縁」の原理の生命力が衰退の道に入ったことを象徴的に示しているといわなくてはならない。そして、さきの「無縁所」の場合と同じように、自治都市の「公界」としての性格を示す史料は、こうした時期に入ったころに、現れる。[87]
補注5のときと同様に、法令や掟書などの文書の読み方を間違えていたなと思う。「憐愍」と書かれば、憐れむような状況の人がいたとしか読めていなかったし、掟書を見れば「公界」は権力が制定したものと勘違いした。実際には、権力にとっては憐れんで貶めるべき人々がいたり、せめぎ合いの上なんとか掟書で統制することができた権力がいる。
無縁の輩、「公界者」にしてはじめて、戦乱の渦中にあって「平和」の使者たりえたのである。[78(七公界所と公界者より)] 
「無縁」「縁切り」の原理が、こうした都市の自治を支えていたことも、推測してよいであろう。[85]
もはや推測をこえ、われわれは断言してもよかろう。中世都市の「自由」、その「平和」を支えたのは、「無縁」「公界」の原理であり、「公界者」の精神であった、と。[91]
この部分を読んでいると、「公界者」が世俗の人とは全く別のルールを持った異国の人のように思えてくる。「無縁所」「公界」は国内にある異国。そのため近隣の動乱はここには影響せず「敵味方の沙汰に及ば」ない。言葉は通じ、地続きの場所にあるため、そこまでのものと想像がつかなかった。国の内部に法が及ばない治外法権的場があったと思うと、今まで当時の無縁の力の強大さが今までよりイメージできた気がする。

コメント(山根)

  • 資料担当だったが、どう読み込んでいけばいいのか掴めず、無理やり絞り出したものになってしまった。ゼミの中で、今の経験に引きつけて考えたり、現代から遡って無縁の世界を理解しようとし過ぎて読みにくくなっていることがわかっていった。
  • 例えば、無縁の場はほとんどが世俗の力が及んだなかにわずかに砦のようにあるイメージで読んでいたが、もともとは広大に無縁が広がっていた中に戦国武士たちの支配する地域が現れたとイメージしたほうが良いのではという提案で視界が開けてきた。

コメント(小林)

  • 有縁の世界と無縁の世界の違いの説明について、血縁や関係性を排し、純粋に能力や金銭の多寡によって関係性が結ばれる、という事実に直面して、理解に苦しんだ。それは、有縁の原理が限りなく広がっている現代社会で、そうした能力主義、拝金主義によって発生する問題が多々あるにもかかわらず、無縁の場が人間以外のものを中心としていることが矛盾しているように見えたからだった。 
  • しかし、上記の「矛盾のように見える現象」は、現代社会がお金を使って関係性の強化や技能の向上などを行っていると捉えるとスッキリと解消された。無縁の場の実力主義は、例えば芸能民で言えば、純粋な芸能の実力のみによる関係性であり、そこに金銭の多寡は関係がない。 逆に、金融の世界では金銭だけによって関係性が結ばれるのであり、金銭以外のものによって影響を受けることはない。それは、単純に、芸能という実力主義の世界を機能させるためには、金銭や血縁が入ることが有害だったからであろう。実力のない者が、お金を持っているから、誰それの親族だからということで芸能民としての活動を許したら、そこから芸能の衰退が始まる、といっても過言ではないだろう。それは、無縁の原理が色濃かった市場、交通機関、芸能民を含む職人の世界でも同様だったのだろうと推察される。 

コメント(大谷)

  • 無縁の場の性質である「自由」と「平和」と西欧の近代以降の自由と平和との違いは以下の様なものとして網野善彦は区別している。無縁に由来する括弧つきの「自由」と「平和」は、原始よりこの地にあって、誰にも管理支配把握されていないがゆえの「自由」と「平和」である。そこには、敵対する勢力はなく、束縛や闘争自体が双方の利益を損なう。一方、括弧なしの自由と平和は、何らかの所有者・支配者がいる場における「許可された自由」と「守護された平和」である。戦国大名のような武力による実効支配地域では、支配者による庇護がある限りにおいて自由であり、敵対勢力の侵攻がない限りにおいて平和である。これらはもともと部分的限定的な自由と平和であったが、所有と支配が地上を覆い尽くした現代においては、括弧つきの「自由」と「平和」の余地はないことになる。このことが現代において無縁の「自由」と「平和」をイメージすることを困難にしている。
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