【05】『増補 無縁・公界・楽』第4回レジュメ

九、十、十一
                   2015年4月5日(日) 吐山 信子
九 一揆と惣
 ここでは笠松氏と勝俣氏の考察にもとづき、
P.94 うしろから6行目〜]
 とすれば、「老者」=「公界」という等式は一揆においても成立し、一揆は「無縁」の場ということにならざるをえない。
P.95 3行目]「戦国法」
 一、この人数中沙汰ある時、兄弟・叔甥・縁者・他人によらず、理運・非儀の意見、心底を残すべからざるものなり、猶々偏頗私曲あるべからず
P.95うしろから7行目〜3行目]
 一揆がまさしく「無縁」の場であったことを強調、「〈無縁〉という状況の設定こそ、一揆形成・存立の基本的要件であった」と述べている。そして、この契状にみられる「多分の儀」——— 多数決制は、「無縁」の場において、はじめて成立したとし、一揆は成員の自立と平等を原理とする一個の「平和団体」であったと主張したのである。
 とはいえ、もちろん一揆は、領主たちによる下人・所従と百姓に対する支配のための組織であった。〜〜中略〜〜自治都市の会合衆が豪商による都市下層民の〜〜〜P.96 4行目〜〜P.97
 しかしそれにも拘らず、彼等が「公界」「無縁」の原理に支えられ、強烈な平等原則によって貫かれた場を、ある場合、一時的であったにせよ、一揆・会合衆という形で創出したことに、われわれは注目する必要がある。むしろそこにこそ、このような制約のなかにあっても、あくまで自己を貫徹してやまぬ「公界」「無縁」の原理の底知れない深さと生命力とを見出さなくてはならない。室町・戦国期、日本全国各地に、多様な形で姿を現す一揆が、戦国大名から織豊政権、江戸幕府にいたる権力の専制的支配に抵抗しつづけ、自治都市とともに、そうした支配の完成に最大の障害となりつづけた理由は、まさしくそこにある。
 こうした点との関連で、注目しておかなくてならないのは、自治都市、一揆に共通してみられた「老若」という組織についてである。〜〜中略〜〜年齢階梯的な秩序の原理の上に立ち、「本来階級社会以前の身分的分化様式であり、性別とならぶ自然発生的分業の秩序」であった。〜〜中略〜〜これこそ「公界」「無縁」の場における秩序であり、「公界者」たちに特徴的な組織形態と、私は考える。〜〜中略〜〜それは私有を知らず、私的隷属によって侵犯されない、未開の社会にまで遡りうるからであり、「無縁」「公界」の原理とともに、日本の人民生活の中に、おどろくべき深い根をはったものだったからである。
 とすれば、〜〜中略〜〜農村・漁村・山村の「惣」の組織が「老若」の形態をもっているのは、当然のことといえよう。
P.100 2行目〜]
 「太子」ともいわれる「渡り」たち、漂泊・遍歴する海民、山民、商工業者を、一向一揆の主軸とする主張を、完成することなく世を去った井上鋭夫氏の説は、一向一揆と「公界者」との切り離し難い関係を示唆しており、〜〜中略〜〜一向一揆と寺内町に、「公界」「無縁」の原理が強靭な生命力をもって働いていたことは疑うべくもない。〜〜中略〜〜「公界」「無縁」の原理と、こうした宗教思想との関係も、やはり今後解明さるべき課題の一つ、といえよう。
  一揆  
道・方法を同じくすること。心を同じくしてまとまること。
  中世の土一揆、近世の百姓一揆などのように、支配者への抵抗・逃走などを 
  目的とした農民の武装蜂起。
  惣  
室町時代、荘園解体期に現れた村人の共同体的結合。村民全体の名によって村の意思を表示し、また行動する場合にいう。惣中。惣村。惣荘。
                               [広辞苑]
十 十楽の津と楽市楽座
 [P.102 はじめから〜P.103P.104P.105P.106P.107 P.108 ]
 伊勢・志摩の海辺には、古くから天皇に贄を献納する海民の集団が分布していた。恐らく平安末期までに、これらの人々は蔵人所に属し、蔵人所供御人といわれる集団をなして勾当内侍に統轄されるようになっているが、桑名もその根拠地の一つで、〜〜中略〜〜海上交通にも従事したと思われるこれらの海民の後裔が、中世末期の自治都市、禁裏御料所桑名の発展を担った商人だったことは、推断してまず間違いなかろう。
 その桑名は、戦国期「十楽の津」といわれていた。〜〜中略〜〜
 〜〜中略〜〜 とくに注目すべき点は、桑名が禁裏御料所であり、桑名衆が供御人の後裔だったという事実である。大湊・山田の人々が、伊勢神宮の神人(広義の)の流れをくんでいること、堺の場合も、春日神人や供御人の系譜につながる人々がいたとみられることを考えあわせるならば、これは、「公界者」の系譜を中世前期にまで遡って追究するために、重要な手懸りを与えるものといわなくてはならない。
 さらにまた、桑名衆が「上儀」を承引せずといわれている点も、見逃し難い。
〜〜中略〜〜戦国大名の支配強化と、本質的に対立する論理の一つの表現といわなくてはならないが、〜〜中略〜〜
 「うへなし」という主張は、「公界衆」のあり方、「公界」の論理と切り離し難い関係にある、ということもできるのではあるまいか。
 「公界衆」に供御人、神人等の流れをくむものが多い、〜〜中略〜〜戦国期ともなれば、「公界衆」にとって「上」に当たる天皇・将軍・神社等は全く無力となり、〜〜中略〜〜こうした「上」にかわって、戦国大名が「上」になることをたやすく認めようとせず、頑強に拒否しつづけているのであり、「うえなし」の主張はそこにでてくる、とも考えられるのである。
 〜〜中略〜〜「十楽」とは、まさしく「公界」「無縁」の原理の、より積極的な表現だったのである。
●在地楽市楽座令 
商業の発展、商人の成長に伴う新たな動向のなかでのみとらえるのは問題で
あり
●織田信長制札 
 第一条は、「無縁」「公界」の原理を、集約的に規定したものであり、「楽」の原理もまたまさしくここにあるといわなくてはならない。〜〜中略〜〜この市場も「無縁」の場であった。〜〜中略〜〜「無縁」「公界」「楽」が全く同一の原理を表す一連の言葉であることを疑う余地はない。

十一 無縁・公界・楽
 P.111 はじめから2行目〜]
 しかし、例えばかつて蠣を貢納する供御人であった桑名の人々が戦国期に入っても、なお蠣を朝廷に進めている事実、あるいは、戦国大名から諸役免許を認められていた鋳物師が、朝廷への公事は納めていることなどに注目しておく必要がある。〜〜中略〜〜このような無縁・公界の人々の天皇に対する貢納は、戦国期をこえて江戸時代まで継続している場合もみられたのであり、公界・無縁の場、あるいは人と、天皇との関わりが、このような形で、ほそぼそではあれ存続していることは、決して無視されてはならぬであろう(後述)。
P.112 うしろから2行目〜P.113
 戦国期も、遍歴する公界者には、諸国往反自由の権利が認められていたことは、間違いないが、注目すべきは、これらの人々の多くが、中世前期の供御人の流れをくんでいる点である。さきの天皇への貢納の存続も、もとよりこのことと関係しているので、ここまで視野を広げてみたとき、この通行権の淵源、さらには無縁・公界の原理の源泉を中世前期にまで遡って考えるための道が、広くひらけてくるといえよう。〜〜中略〜〜こういた自由通行権が、まさしく「場」そのものに即して保証される形が現れてくる点にこそ、遍歴する「芸能民」、公界者の、特定の「場」への定着が進行した戦国期(恐らく室町期を含む)以降の特徴が端的に現れており、〜〜中略〜〜
P.113 うしろから7行目〜]
 無縁・公界・楽の場は「敵味方のきらいなき」「敵味方の沙汰に及ば」ぬ「平和領域」であった。〜〜中略〜〜そして、三昧聖・勧進上人・禅律僧・山伏をはじめ、連歌師・茶人・桂女等々、商工民をも含む広義の「芸能民」は、みな平和の使者たりうる「平和」な集団であった。
P.114 まえから4行目〜]
 それであるが故に、聖徳寺が織田信長と斎藤道三の会見の場となりえたという勝俣氏の指摘は、「平和領域」としての無縁・公界・楽の場の特質を鮮やかに浮き彫りしているといえよう。こうした機能は、江戸時代には著しく衰弱するとはいえ、遊郭や博徒の集団には、なお残存していたとみて間違いなく、恐らくは目立たぬ社会のさまざまなひだの中には、まだ明らかにされていないこのような場が、多く存在していたのではないだろうか
P.114 まえから2行目〜]
 公界者・公界往来人は、大名、主人の私的な保護をうけない人々、私的な主従、隷属関係から自由な人々であった。主人面をして手をかけようとするものを。断乎として拒否するこうした人々の行動は、戦国期、なお社会的に認められ、支えられていたのである。
P.115 まえから6行目〜]
 貸借関係の消滅  借銭・借米が無縁・公界・楽の場では破棄されたことについては〜〜中略〜〜国質・所質・郷質等の禁止について〜〜中略〜〜そして同じ原理から、無縁・公界・楽の場が徳政を免許されていたことも、〜〜中略
P.116 まえから1行目〜]
 若狭の鋳物師、石清水八幡大山崎等々も徳政免許だった点で、粟津座の商人に対する商人に対する所質が禁止されていた事実をふくめ、公界者の集団自体、寺院・都市と全く同じ属性をもっていたのである。
 こうした属性によって、無縁・公界・楽の場での平等・対等な交易が保たれ、また、祠堂銭等の金融活動も社会的に保証された。脇田氏はこのような金融・交易の保証の根源を「商人道の故実」に求めつつ、それが「私有の論理を軸」として動き、「私有の論理による秩序の確立」をめざすものであった、と強調している。〜〜中略〜〜こうした論理と対極にある「無縁」の論理が背後でそれを支えていることを見落し、「私有の論理」のみですべてを処理しようとするならば、自治都市・無縁所等々のそなえている前述したいくつかの特徴を統一的に理解する道は、全く閉ざされてしまうであろう。「商人道の故実」そのものについても、単にこの角度からのみでは、その内容を明らかにすることはできないのではなかろうか。そして、こうした見方の根底に、「私有」「有主」の論理の発展・深化のみに歴史の「進歩」を見出し、「無所有」「無主」の論理に、おくれた、克服さるべきものしかみようとしない志向が、強靭な根を張っている、と私には思えてならない。
 しかし、視座を逆転し、勝俣氏とともに、無縁・公界・楽の原理を承認する立場に立てば、〜〜中略〜〜
[つづき P.117 まえから2行目〜]
 視野は新たにひろびろとひらけてくる。例えば、室町期に入って頻発しはじめる徳政一揆や、地徳政・地起などについても、こうした原理を背景においてみるならば、〜〜中略〜〜恐らくそこには、前述した一揆の公界・無縁性、「徳政」そのものの無縁世界への志向が深く関連しているであろう。
P.118 うしろから2行目〜P.119
  以上、無縁・公界・楽の場、及び人の特徴をまとめてみたが、このすべての点がそのまま実現されたとすれば〜〜中略〜〜まさしくこれは「理想郷」であり、中国風にいえば、「桃源郷」にあたる世界とすらいうことができよう。
 もとより、戦国、織豊期の現実はきびしく、〜〜中略〜〜俗権力は無縁・公界・楽の場や集団を、極力狭く限定し、枠にはめこもうとしており、その圧力は、深刻な内部の矛盾をよびおこしていた。それだけではない、こうした世界の一部は体制から排除され、差別の中に閉じこめられようとしていたのである。
餓死・野たれ死と、自由な境涯とは、背中合わせの現実であった。
P.121 まえから4行目〜]
 いかにも、宗教禅宗からでた言葉らしく、「公界」は「楽」に比べて、自立的なきびしさをもった言葉であり、私的な縁を一切断ち切る強い意志を秘めている。「理想郷」をめざす志向に圧力を加えようとする力に対し、これを断乎拒否 する姿勢を示す表現として「公界」は最も適当だったといえよう。
P.122 まえから5行目〜]
 しかし、これらの仏教語が、日本の民衆生活そのものの底からわきおこってくる、自由・平和・平等の理想への本源的な希求を表現する言葉となりえた、という事実を通じて、われわれは真の意味での仏教の大衆化、日本化の一端を知ることができる。もとより、ギリシャ・ローマの市民の民主主義とキリスト教の伝統をもち、ゲルマンの未開の生命力に裏づけられ、中世を通じて深化し、王権との闘いによってきたえられてきた西欧の自由・平等・平和の思想に比べば、「無縁・公界・楽」の思想は体系的な明晰さと迫力を欠いているといえよう。とはいえ、これこそが日本の社会の中に、脈々と流れる原始以来の無主・無所有の原思想(原無縁)を精一杯自覚的・積極的にあらわした「日本的」な表現にほかならないことを、われわれは知らなくてはならない。 
P.121うしろから2行目〜]
 「楽」は信長、秀吉によって牙を抜かれて〜〜中略〜〜「公界」は「苦界」に転化し、「無縁」は「無縁仏」のように淋しく暗い世界にふさわしい言葉になっていく。

■吐山コメント

 これら三つの章から、私が幼い頃からぼんやりと感じてきた今の日本を形づくってきたものが現れた思いがした。思想の点で、西欧のように明晰さを欠いている。あいまいな日本…あいまいな私……
  とはいえ、その背骨には、抜き書きで上げた、「一、この人数中沙汰ある時、兄弟・叔甥・縁者・他人によらず、理運・非儀の意見、心底を残すべからざるものなり、猶々偏頗私曲あるべからず」をはじめとする無縁の世界の柱となった思想が、いまもこの日本のどこかの地底の水脈となってあるのでは。あった。前回のゼミの終わりだっかで大谷さんが、教科書採用にまつわる贈収賄の話題がでたとき、「ぼくは嫌だ」と言い、この書物の中の考察を単に過去をたどるものにするのではなく、現在もこれからにもつなげていきたという旨のことを発言したが、私も全く「同感」である。アンフェアは嫌なものだ。とくにお金に惑わされるのは…なんだかな、である。だが、適度なお金はほしい。

 同じく抜き書きした、「『多分の儀』——— 多数決制は、「無縁」の場において、はじめて成立したとし、一揆は成員の自立と平等を原理とする一個の「平和団体」であったと主張したのである。」  について、今の多数決制の民主主義が行き詰まってきているとしたら、「無縁」の原理が働いてないからにほかならないのでは、と思った。

 「無縁・公界・楽」という仏教語。仏教の日本への伝来とその普及、浸透の過程において、在来の神々との共存、取り込みも行われただろう。(神仏習合でいわれる本地垂迹)。私には、その追いやってきた神々に支えたり、まつわる人、集団の影も感じられる。だから、ここでは、網野は、「『無縁』の原理の源泉を中世期————南北朝から鎌倉期にまで遡ってみなくてはならない」と結んでいるが、もっと遡って考察することも視野に入れていれていたのでは。
 
 「無主」の「無縁」の主は戦国大名なんかじゃない、天皇だった。神人、供御人等々が歴史の中で非差別民に転じていったのなら、天皇とはどういう存在なのか。象徴とはいえいまも天皇をいただく日本という国のあり方を考えた。

 私は、差別される人々、民族の存在を知ったのは、中学生のときに読んだ『アンネの日記』から。当時、日本は戦後の色合いも残しつつ、発展を目指す、高度経済成長期前夜。家庭でも学校でも、手短かにいうと「盗むな、犯すな、殺すな」といったモラル教育をされており、その本から知った人種差別は衝撃だった。私の差別問題への関心、発端は逆輸入された。そんなこともあって差別、非差別、世の矛盾に関心が向くように。なぜ差別がおこったのか、その淵源を後年、網野史観をはじめとする、諸兄の研究、考察から知る。「なんや、そんなんから」と思ったが、根深く食い込んでいることに唖然とするばかりで無為徒食の日々を送ってきた。昭和な表現でちょっとケンソン。

 このゼミで、再び「本書」を読む機会に恵まれたと喜ぶだけでなく、「無縁」の実践にどうつなげていくか。課題ができた。


コメント(小林)

  • ゼミでは毎回、自分の中の歴史観がまざまざと変わっていく姿を目撃しているが、今回は天皇についての理解が大きく変化した。人間では説明のつかない恵みや、豊かさに対して、自分たちの存在を安定させるために、神や自然に感謝する気持ちや、具体的な献上物を納める行為が必要であり、それらを受けとめるための装置として天皇の存在が必要になったのではないか、という大谷氏の意見に共感する。
  • 円坐(参考:http://goo.gl/XCYvyHやミニカウンセリング(参考:http://goo.gl/J1T8PC)の現場では、そこにいる誰もが想定しえない出来事が発生する。それは必ずしも心地よいものだけではなく、台風や雷のような荒々しく現れるものもあるが、それを誰かの意思によって起こっていると説明することはできない。現代社会ではそうした場に起こる人には説明のつかない現象なども、繰り返し観察・確認することができるので、法則やルールとしての理解も可能だが、録音機器や説明する言語を持たない社会では 「神」という存在が重要だという推測は成り立つように思われる。

コメント(大谷)

  • 網野善彦が高校生から問われた「なぜ天皇は滅びなかったのか」という問いに対する答えのようなものがおぼろげながら浮かび上がってくる。無縁の原理は中世の日本において極めて重要な社会の仕組みの基盤としてあった。無縁の原理がなければ市も往来も「自由」で「平和」な領域として機能しなかった。無縁の原理というものは、人が集まって生きていく上で、一人ひとりの人間が持っている力の総和以上の「何か」をもたらしてくれる。どこからともなく現れるその「何か」という恩恵は、太古の人々には「神」の力の現出として見えていた。その恩恵、つまり「神からの贈与」によって、社会が築かれてきた。「神」は「上」であり、その場所に「天皇」というものがあるのだとすれば、「天皇」は日本という場所に暮らす人々が集まり作り上げてきた社会システムの象徴としてあることになる。祭り上げられた天皇は、たとえそれがどんなに力を弱められたとしても、人々の社会が存続する限りなくなることはない。もしも、日本から天皇というものがなくなるとすれば、その時日本に住む人々が自らの社会の基盤を再認識・再構築し、天皇というものを改めて問いなおしたときに他ならない。戦国大名がいかに強力であったとしても、「上」になりえないことは、「一部の人間の力による支配の仕組み」と「人々が自らが無縁の原理にもとづいて祭り上げた仕組み」とを厳格に区別していて、決して「力による支配」を正統な支配として認めないという意志の現れなのだといえよう。
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