【38】千葉雅也「動きすぎてはいけない」ゼミ 第3回 2024年5月18日 大谷隆 ## 範囲 序ーー切断論 0-32 接続的/切断的ドゥルーズ 38ページ、4行目まで ## 日本の批評家たちへのリスペクト 「批評」「批評家」についてこの節は始まる。 > 日本の批評家たちは、批評という体系的・網羅的であろうとしないアドホックな判断ーー対象に関係する膨大な事情をうまく切り離して論じることーーに即して、リゾームの非意味的切断の重要性を、直感できていたのかもしれない。[29] ここで、批評・批評家と対置されているのは「研究論文・研究者」といったものだろうか。批評が「体系的・網羅的であろうとしないアドホックな判断」であり、それによって「対象に関係する膨大な事情をうまく切り離して論じること」ができるものであるのに対して、研究は体系的・網羅的である必要があり、対象に関係する膨大な事情を一つも見落とすことなくすべて丹念に検証しなくてはならないということになるか。 複雑にリゾームを形成するような事態に対して、研究における判断では、常に、コントロールの効いた、意味ある接続と切断が求められるが、批評では、もっと軽やかに、時には非意味的切断すらも許容する。批評家はそのようにやる。 研究的に扱うには、すべてを証拠(エビデンス)として扱う必要があり、証拠は「存在」しなくてはならない。しかし、批評の場合は、いわば「行間を読む」ような、それ自体は書かれたものとしては存在していなくても、扱うことができる、ということだろうか。蓮實重彦が原題「ザッハー=マゾッホ紹介」という本を「マゾッホ**と**サド」と、原題には無いーー作者当人ですらそうは書いていないーー「と」を浮かび上がらせるように読み替えたように。 批評家・蓮實はこの「と」がドゥルーズの哲学を象徴するものだと「見抜いていた」。 批評というもの自体が、この本で論じられることになるドゥルーズの哲学、「リゾーム」や「接続/切断」と同じような領域に関わっていると千葉雅也は捉えている。少なくとも千葉さんは、哲学者に対してどこか劣勢に置かれ、特に「国内的な(ドメスティックな)」印象を与える「日本の批評家たち」の仕事に対してリスペクトがある感じがする。そして、ひょっとするとむしろ、彼らの批評という手際による仕事こそが、国際的な(グローバルな、インターナショナルな)のドゥルーズ研究に先駆けていたり、もう一方踏み込んでいたりしたと、言おうとしているのかもしれない。 ## ドゥルーズの「と」 蓮實重彦が見抜いたドゥルーズの「と」というのは、 > 「と」、とは、明確な境界線の明示を使命として持ち、並置された二要素のみだりな溶解や性急な二者択一、一方から他方への演繹または帰納、あるいは弁証法的な対立関係を先験的に生きるものではない。[29-30] 「と」というもので並べられた二要素は、ただちには、次のような運動に移行しない。ということか? 1. 両者が同じカテゴリーに属すること。例「犬と猫は動物だ」と言った時の「犬**も**猫**も**動物だ」と解釈される動き。 2. どちらかを選ぶこと。例「仕事と私どちらが大事」と言った時の「仕事**か**私**か**どちらかを選べ」と解釈される動き。 3. 一方によって他方が得られるようなこと。例「日本と私」と言った時の、日本的であることと私であることの間に何かしらの演算的な結合を得ようとする動き(?) 4. 対立・矛盾した二要素を総合して乗り越えること(いわゆるヘーゲル弁証法)。 そうではなく、ドゥルーズの「と」というのは、左右の二要素が「分かれていること/つながることを共に肯定する」こととなる。この「と」(離散的総合)とリゾームという概念を使って、 > 他の事物「と」リゾームをなすこと、それが、生成変化である。[30] と言えることになる。 ## 千葉さんの欲望と言祝ぎ これらから、この本の位置づけ、主張は以下のようになる。 > したがって本稿では、**リゾーム状の関係をめぐる考察を、生成変化論として展開する**という方法を採ることにする。リゾームの〈接続の原理と非意味的切断の原理〉は、生成変化という自他の関係の変化の原理である、と主張できるのである。[31] 通常、「自他」は別の存在であり相容れない。「自」対「他」として二分法的に扱われる。これに対して、千葉は、「自と他」というように、ドゥルーズの「と」を用いてとらえることを試みる。 自と他が、分かれていること/つながることを共に肯定することということは、自が他に「なる(生成変化)」ことも起こり得る。この「方法」によって、千葉さんは「私の「女性への生成変化」」も可能だと言おうとしている。 千葉さんの書いた処女小説『デッドライン』に次のような箇所がある。大学院生時代の著者本人を思わせる主人公「僕」が、自らの研究に向かおうとしているシーンである[107]。 > だがその励ましは、男が好きだという欲望に対する外からの弁護みたいなものであって、僕は僕自身のありようを掘り下げて考えていたわけではなかった。 > 僕は何を「言祝ぐ」のか。僕自身の欲望を内側からよく見なければならないのだ。ドゥルーズを通して。 若い主人公は、自身のセクシャリティにまで掘り下げて接続しつつ、自身の哲学的探索として、哲学の巨人たちに触手を伸ばして絡みついていこうとしていると感じる。イソギンチャクのように。 ゼミ該当範囲は、もっと先まであるのですが、今回の範囲は結構ハードだったので、あまり欲張りすぎずに今回はこのへんまでのレジュメにします。 以上 Share: