【37】國分功一郎「スピノザ ー読む人の肖像」ゼミ 第5回 2023-10-24 大谷隆 ## 範囲 第四章 人間の本質としての意識ーー『エチカ』第二部、第三部 3 『エチカ』第三部ーー欲望と意識 ## スピノザと國分功一郎の言葉観 これはあるいは哲学全般に当てはまるのかもしれないが、スピノザや國分の言葉観にはある特徴があるように感じる。 > 「精神と身体とは同一物であってそれが時には思惟の属性のもとで、時には延長の属性のもとで考えられる」にすぎないからである。[197] これは、「精神」というものや「身体」というものが実体として存在し、それぞれの客観的存在に対する固有の呼び名である、というような言葉観ではない。実体としてあるのは「同一物」一つであり、それをある側面から見れば「精神」であり、別の側面から見れば「身体」であるという言葉観である。 つまり、精神や身体といった名詞であったとしても、言葉というものは、何か固有の実体物を〈指示〉しているラベルではなく、ある様相を〈表現〉しているものにすぎない。スピノザの精神と身体の捉え方もそのようなものであり、それを「にすぎないからである」と捉える國分の捉え方もそれに倣っている。 言葉というものが、ある固有の何かを指示したラベルではなく、ある状況を言葉でしか表出できないものとして表現した「それ」である、という言葉観は、哲学書を読む際には有効かもしれない。「精神」や「身体」といった西洋哲学でほぼ自明とされている概念ですら、個々の哲学者によって解釈が異なるのは、その人が何を持ってそれと言っているかという表現プロセスを言葉自体が含んでいるからだろう。スピノザの精神とデカルトの精神は異なっている。両者が何をもってそれを精神と捉え、精神と表出したかという表現プロセスの違いをも含んだものとして、「精神」という言葉がある。 精神や身体など、全ての言葉が、私が生まれる前から、ある共有的実体物のラベルとして決まっていて、そのラベルをパズル状に配置して使っている、という道具的な言葉観とは大きく異なる。 こういった言語観を持った上で、感情とは何のことを表現しているのかということを思い描くと、なかなか興味深い世界に入り込む。 > 感情とは身体の変状であり、また**同時に**その観念である(第三部定義三)。 > > たとえば怒りという感情は、精神の中の怒りの観念としても、身体上の反応としても考えることができるが、それらは同一物が異なる秩序において、異なる質として表現されていると考えられるわけである。[197] ある同一物が何かしら変状したとき、その変状はその同一物の身体的側面(延長の属性)を変状させる、と同時に、その身体における変状は、精神(思惟の属性)も変状させる。このような、二側面の同時並行的な変状(アフェクティオ)を感情(アフェクトゥス)と表現する。 ## 個物としての存在 コナトゥスはとても興味深い。まず、コナトゥスは、スピノザ哲学でとても重要な位置を占めているが、その意味するところが、個物性であるということ。個物は所詮個物、個体としての存在にすぎず、普遍性や共通性とは逆側に位置する。人間一般の本質があったとして、その本質と「私の固有性」とは、通常は関連づけない。人間一般に共通する普遍的な原則を述べる際に、「私に固有の事情」は通常、不要だとされる。 スピノザは、 > コナトゥスとはその個体が自らの存在に固執しようとする傾向性である。[198-199] とし、あらゆる個物の本質はコナトゥスとする。古代ギリシア以降「本質はエイドス(形相)と定義」されていたものを、スピノザが「本質はコナトゥス。つまり個体がもつ特性と定義」しなおしたことの衝撃の大きさを國分は指摘している。 「我々」を主語として、普遍的、共通的なことに、本質があるとする考え方に対して、「私」を主語として、個人的なことに本質があると言っているわけで、これはとても重大である。 ただし一方で、前述したある意味で軽い言葉観からすると、スピノザは、「個物として存在しつづけようとするものを個物と呼ぶ」という個物性自体の定義を表現しているだけで、その個物が現実に存在しているように見える以上、この個物性は無視できないという意味で「個物の本質は「個物的存在継続傾向があること(コナトゥス)」である」と表現しているにすぎないのかもしれない。 ## 粘り強い思考 前回のレジュメと同様、本筋とは外れるが、気になったところから切り込んで見る。 > (理由などないということなら、原理が存在しているにもかかわらず原理の存在理由が存在しないとはどういうことかが説明されねばならない)[201] 一般に「あるものが存在しないことの証明」は「悪魔の証明」と呼ばれ、証明が困難であることが多い。この場合は「原理が存在しているにも関わらず」と条件があるため、単純な非存在の証明ではないものの、なかなかに挑戦的な態度というか、粘り強くその場所に留まり続けようとする意志を感じる。 この粘り強い思考によって生み出されているのは、本章で言えば、「意識はなぜ積極的に定義されないのか」という節がある。この節は「なぜ、〇〇されないのか」と、問うている。一般に「なぜ、〇〇するのか」は問いやすいが、逆は難しい。この見過ごされがちな問題意識によって、「意識」というものをスピノザがどのように捉えていたかが炙り出されていく。 > おそらくここに読み取られるのは、人間を論じるにあたってのスピノザの非常に繊細な手つきである。確かに人間の本質の特徴は意識にある。だが、そうした理由からこれを積極的に定義したならば、意識は人間精神がもつ一つの能力として措定されることになったであろう。そしてその能力は諸観念の集合である人間精神の上位に位置づけられ、人間を形式的に定義することになったはずだ。[208] つまり「意識が人間の本質である」と積極的に定義すると、意識というものが人間と人間以外とを区別し、意識が人間を一義的に定義するものとなる。 しかし、スピノザは、そう考えているわけではない。むしろ、逆である。 > あらゆる存在、人間以外の生物はもちろん、おそらくは無機物さえもが「**程度**の差こそあれ精神を有している」のだった。ならば、人間においては、その身体があまりにも複雑であるため、それに従って精神もまた複雑になり、意識のような特殊な観念を有するに至っていると考えるべきであろう。スピノザが「程度」と言っているのを見逃してはならない。精神ーーということはつまり身体--は度合いにおいて捉えられている。したがって、**人間以外の存在が意識を有する可能性がここでは否定されていない**。 意識は人間本質にとって重要であることは間違いないが、だからといって、人間だけにあるものだとは言い切れない。小数点以下を機械的に処理する四捨五入的思考ではない、小数点以下を維持しながら計算を続けるようなところがある。國分が「繊細」と表現した、この境界線ギリギリに留まる思考に粘り強さを感じる。 ## よくわからなかった箇所「欲望の再定義」 この節はよくわからなかった。 ひとまず以下のように欲望は定義された。 定義A 欲望とは「意識を伴った衝動」(衝動+意識=欲望) 第三部定理九備考 また、 1 人間の本質が欲望であり、 2 欲望が意識を伴った衝動であるならば、 3 欲望とは人間的な衝動であり、 4 人間の本質は意識を伴っていると言える。 とある。 これが、再定義された。 定義B 欲望とは、人間の本質が、与えられたおのおのの変状によってあることをなすように決定される限りにおいて、人間の本質そのものである。 前提として、 > 「むしろ欲望を、我々が衝動、意志、欲望または本能という名称をもって表示する人間本性の一切の努力(コナトゥス)をその中に包含するような仕方で定義しようと私は努めた」[206] とある。 この文章は、「欲望を定義しようと努めた。衝動、意志、欲望または本能などコナトゥスをその(欲望)の中に包含するような仕方で」という意味? つまり「欲望を、コナトゥス(衝動、意志、欲望、本能など)が含まれるように定義しようとした」。 また、コナトゥスはその個物の本質(その存在に固執する傾向性)なので、 1 欲望はコナトゥスを包含するとすると、 2 人間において、人間のコナトゥスは、人間の本質である。 3 「与えられたおのおのの変状によってあることをなすように決定される」ということを、人間に当てはめれば、欲望が人間の本質そのものとなる? あるいは、 3 「人間的な」という条件に限れば、衝動よりもむしろ欲望のほうが「人間の」コナトゥスをより体現している(濃度が高い)?ので、欲望が「人間の本質そのもの」となる? ということなのだろうか。 とりあえずの理解として、 1 コナトゥスは衝動、意志、欲望などと同列のものではなく、その要素的なものである。 2 コナトゥスは個物の本質である。 3 コナトゥスは人間に限らずある。 4 もしも「人間に限れば」、「人間にとっての」コナトゥス度合いが高いのが欲望。よって欲望が人間の本質。 なのか? この手の論理演算は苦手なので、誤っている可能性が高いです。 以上 Share: