【37】國分功一郎「スピノザ ー読む人の肖像」ゼミ 第4回 2023-09-26 大谷隆 ## 範囲 第四章 人間の本質としての意識ーー『エチカ』第二部、第三部 1 『エチカ』手稿の発見 2 『エチカ』第二部ーー身体と精神 ## 言葉の不確定性 本書はとても丁寧に書かれている。流れを噛み砕いて追うだけだとほとんど書き写しになってしまって、レジュメが書きにくい。スピノザと国分さんの面白さに迫りたい。少し違う角度から、今回の流れに入ってみたい。 > いずれにせよ注目するべきは、スピノザが人間以外の生物についても精神を認めていたという点である(デカルトは動物に精神を認めなかった。動物は機械であり、人間は身体という機械を精神で動かしている存在だと考えていた)。[172] この部分だけを読むと、例えば「精神」という言葉と「動物」「人間以外の生物」という言葉について、次のような意味で受けとりうる。 「スピノザ、デカルトの両者とも「精神」という言葉を用いている。この「精神」は同じものを意味していて、その適用範囲が異なる。つまり、「精神」という言葉の意味するものは両者に共通で、固定されたものであり、その適用範囲に「動物」や「人間以外の生物」を含めるかどうかが、スピノザとデカルトを分けている」、と。 しかし、ここまでの文章を注意深く読めば、実は「精神」と呼んでいるもの自体からして、デカルトとスピノザは同一のものではなく、異なっているイメージを持っているのではないかと思われる。そうなると、前記の文章は、むしろ「動物」や「人間以外の生物」が固定されていて、両者が使っている「精神」という言葉の意味が異なるということかもしれない。あるいは、さらに、「精神」も「動物」も「人間以外の生物」も全て、これらの語彙たちが互いの関連づけによって定義されているようなものであり、どの語彙もスピノザ、デカルトの両者で共通しているわけではなく、少なくとも、少しずつ違うのではないか。 だとしたら、一体何を言わんとしている文章なのか。何も共通するものがないなかで、どうやってスピノザとデカルトは議論しているのか、國分さんは両者の違いを指摘しているのか。 しかしもちろん、哲学上の「議論」は噛み合っている。 この、言葉というものの原理的な不確定性というようなもののなかで、議論すべき領域に向けて寸分違わず的中を狙っていく綱渡りのような緊張感が哲学の面白さではないかと思う。面白い哲学書は、その言わんとしている領域に多くの哲学者を招き入れるが、彼らの言葉は必ずしも同一の単語ではない。それにも関わらず「まさにその話をしている」と思わせるところがある。 すべての言葉は、根拠をたどれば個的なものであるしかないにも関わらず、共通性を獲得しているかのように思えるのはなぜか。哲学の面白さはこういううんざりするようなことを、具体的にしつこくネチネチやってくれるところだと思う。 ## スピノザの精神のイメージ そういう意味で、一つ一つの言葉の「イメージ」が大事で、「精神といえば精神だ、辞書に書いてある」といった乱暴に共通性を当てはめてしまうと哲学たり得ない。 國分さんの丁寧な読み解きから、スピノザの言う「精神」とはどのようなものなのかをイメージしてみたい。 ### 身体との関係はどうなっているか #### 原理 >第二部定理11 > >人間精神の現実的有を構成する最初のものは現実に存在するある個物の観念に他ならない。 「どんな個体も**程度の差こそあれ**精神を有している」。 > 第二部定理12 > > 人間精神を構成する観念の対象の中に起こる全てのことは、人間精神によって知覚されなければならぬ。 > > 第二部定理13 > > 人間精神を構成する観念の対象は身体である。 身体に起こる全てのことが、人間精神によって知覚される。 ここが精神の原理的な部分になる。身体との結びつきに強さがあり、一対一の対応を思わせる。 #### 観念の観念 身体(Corpus、物体)は複雑である。人間精神は「身体の**観念である**」ので、同様に精神も複雑になる。しかし、身体の隅々まで「**認識する**」わけではない。スピノザは、〈我々がそれ**である**ところの観念〉beと〈我々が**有する**観念〉haveとを区別する。 身体が飢餓状態であることと、その飢餓状態にある身体について認識することをスピノザは区別する。「である」のは身体の変状の観念であり、「有する」のはそのさらに観念。身体の変状は、「身体の観念である〈身体ー観念〉」関係に差異をもたらす。その差異を「認識する」。 #### 「自由意志」なるもの 身体についての観念は、まずは非十全なものしか得られない。得ているのは「前提のない結論のようなもの」。どのような原因かを知らずに結果だけ得ている。「身体の変状の結果だけを意識している」[183]。 前記の疑問、「観念である」ことと「観念を有する」ことの違いについての問を書き換える。 > 精神が身体の観念であるにもかかわらず、身体の妥当な観念を有していないとは、つまり身体を十全に認識していないとは、どういうことなのか。[177] > 身体の変状とは身体が何らかの刺激を受けて、一定の形態や性質を帯びることを言うのだった。だとすると、身体がどのように返上するのかは、その身体の特徴と、与えられた刺激の特徴の双方に依存することになる。つまり、ある身体の変状は、その身体の特徴だけでなく、与えられた刺激の特徴をも含む。[177] 自分の身体の特徴と外部の刺激の特徴とが相互作用を起こして変状をもたらす。精神がこれのすべてを知ることは困難であり、「前提のない結論のようなもの」。自らの身体について、まずは不確かな観念しか獲得できない。 一つの行為は無数の原因によって引き起こされている。私の行為の原因は無数にあるが、それを知らずに結果だけ与えられている。知らない以上は、自分が引き起こしたと思う。これが、自由意志の由来である。 > 意志が何ものにも先行されず、純粋に自発的であることを意味している。[180] しかし、行為の原因は無数にあり、行為は多元的に決定されている。一元的に捉えると、自由意志の否定は「何者かに操られているロボット」のようなイメージになる。 「意志の否定」という言葉において、「意志」が共通のものであって、それが否定されていると読むと「納得できない」。そもそもスピノザは、「意志」という言葉のイメージが異なっている(一元的か多元的か)。 #### 意識の概念 スピノザも國分も同じ態度を取っているが、ここで、意志を否定して、意志を議論から排除してしまうことはしていない。むしろ、そのような「意志」と呼ばれるものがなぜ生じるのか、と問い返し、そのメカニズムを知ることから重要な議論を展開していく。 > ではこの一元的決定のイメージはどこから来るのか。[182] スピノザの説明では、こうなる(すでになされている)。 > それは我々が複雑な原因の連鎖については無知であって、身体の変状の結果だけを**意識している**からだ。意識される結果は意志という単一的な力であるため、行為が一元的に決定されているかのように感じるのである。[183] 意識というものが、限定的である(制限されている)がゆえに意志として得られた結果が「単一化」する。これは、面白い捉え方。 #### 「目的原因」なるもの この単一化の例を、目的原因という言葉を使って考える。たとえば、 1. スピノザ哲学を理解したい。 2. 本書を読む。 こういう行為が為された場合、1は目的と呼ばれ、行為の原因だと考える。つまり、2の行為をする時点で1という目的に無数にあったはずの原因が「単一化」されてしまっている。この単数化した原因であり目的であるものを「目的原因」と呼ぶ。 しかし、1はむしろ結果である。これまでの様々な出来事がすべて原因としてあり、その結果「スピノザ哲学を理解したい」と思うようになった。 このように原因と結果が入れ替わっている。目的原因によって行為すると考える考え方を「目的論」という。 #### なぜ目的論的に考えがちなのか ここでも「目的論」を「誤った考え方」として議論から取り除けるのではなく、むしろ、なぜ人間は目的論的に考えがちなのかと問い返すことで、改めて意識と無意識に関する興味深い議論が展開されていく。 スピノザは「人間精神における無意識の役割に一定の場所を与えている」。フロイトとの共通点がある。そもそも意識とは何であって、ということは無意識はなんであるのか。 #### 意識は知ることができる > 意識は確かに転倒のメカニズムを免れ得ないけれども、むしろこのメカニズムがもたらす目的によって、我々は我々に独自の仕方で諸々の事物へと結びつけていると考えることができる。(略) > 確かに「スピノザ哲学を理解する」という意識された目的は、読者が本書をここまで読み進めてくださったことの原因ではない。しかしこの目的は読者を読書という行為に、そしてこの本に結びつける。[189] 意識の制限性が、目的を生み、意志をつくりだす。しかしこの制限性は必ずしも人間にとって排除されるべきものではない。人間が世界に向うためのアプローチの一つになりうる。 #### 認識の三分類 - 第一種「意見opinio」「表象imaginatio」。感覚を通して得られる知識。虚偽の唯一の原因だが、真なるものを「含んでいる」 - 第二種「理性ratio」。「共通概念」によって得られる知識。「私の身体に立脚しない認識」。 - 第三種「直観知scientia intuitiva」。説明は先送り。 ### 言葉の面白さ、哲学の面白さ 身体と精神の関係からはじまり、「観念」、「認識する」、「自由意志」、「意識」、「目的」などの言葉のイメージを時に書き換えつつ、相互に連携させながら、スピノザの「精神」がどのようなものかが描かれてきた。國分さんが丁寧すぎて、そもそもどういう話だったのかを忘れそうになるが、読んでいるだけで実は自然に、スピノザが「精神」というもので言わんとしている何か(対象)が、その背景ともに現われてきているように感じる。 スピノザの言う精神という言葉は、簡単なフレーズで書き表すことができるかもしれないが、そのフレーズに登場する言葉たちもまた、スピノザの言葉であり、その固有のイメージをまとっている。こういった言葉の全部の連携した文章世界を眺め歩きつつ、そこから影響を受け、僕の言葉のイメージも変化していく。 ### 正解よりも誤解のメカニズムに向う面白さ スピノザも國分も、読者に向かって「正解」を説いているというよりは(そう見せかけつつも)、誤解なのに「ついついそう思ってしまう」「そう考えてしまう」**のはなぜか**、と問い返して、正解よりもむしろ誤解のメカニズムに力点をおいて文章に物語の起伏を生み出している。そしてさらに、誤解するのはなぜかという問いによって、むしろ正解そのものが導かれるという経路がミステリー小説のような面白さを作り出している。 たんに「正解」の記述がしたければ「エチカ」は第一部だけで終わっていただろう。「精神」という言論領域を定め、誤謬にまみれた「感情」と「理性」を対置させてネチネチやる必要はない。 なぜ、無いはずの意志を人間は自ら持っているかのように思うか。それは、自らの意識の制限性によって、自ら世界を捉えていこうとすることが可能になっているためだ。有限であるがゆえに人は誤解する。有限でなければ人は意志を持たず、世界にこのように向うことはない。誤解し、早とちりしつつ、「自ら」行為していくことで、出来事に直面し、変化し、修正しつつ成長していく。これは子供を見ていればよく分かる。このあたりはとても実存主義的に思える。 哲学書は、言葉というものの不確定性によって多層のイメージが畳み込まれた言論空間で遊ぶ楽しさが在る。言葉というものは故郷を持たない。あるいは、言葉にとって二度と帰れないものとして現実世界がある。一度言葉にしてしまえば「言葉にならなかったあの現実」というたった一つの真実に戻ることが許されないが故に、限定的であり、誤解にあふれ、幾度も言い換えられつつ、様々に連携、接続、断絶しながら、文章世界が展開されていく。今回もそんなことを楽しんで読みました。 以上 Share: