【13】加藤周一『現代ヨーロッパの精神』第5回発表資料

2016年5月21日 作成:大谷 

8 シモーヌ・ヴェーユと工場労働者の問題

本章のシモーヌの言葉には、限界の状況下でなんとか言葉を紡いだという強さと魅力を持っている。加藤もそこに惹かれている。
しかしそれは彼女が工場で「以前よりも幸福を感じていないということではない。」なぜだろうか。工場には「現実の人間」があり、好意も、知性も、もしそれが工場に見出されれば、ほんとうのものにちがいなかったからである。
「殊に好意は、それが工場のなかに見いだされるときには、何かほんとうのものです。なぜならどんな小さな親切でも、単なる微笑から他人に手を藉すことまで、疲労や、つきまとう賃金への考慮や、要するに私たちを圧倒し自分のことしか考えなくさせるようなすべてのものに、打勝つことなしには、ありえないはずだからです。(略)工場ではむしろ(大学とは)逆に、考えないことによって、報酬の得られる場合が多いのです。従ってそこに知性の閃きがみとめられるときには、その閃きにまちがいはありません。」
(略)
(シモーヌが)工場生活に何をもとめていたかは、あきらかであろう。要するに特権的な条件によって保護されていないむき出しの「現実の人間」との接触、すなわち彼女自身のいう「ほんとうの人生」の体験である。[210]

シモーヌの力強さは「愛」への言及に集約される。シモーヌは「感覚を追いもとめてはならず、愛のおのずから起るまで、愛を追い求めてはならない」とし、
要するに愛の本質は、人間が他の人間の存在を死活の必要とするということです。その必要が相互的か、一方的か、持続するか、短く終わるかは、場合によるけれども、とにかくその必要と自由とを調和させようという問題がおこります。人間が遠い昔からもがいてきたのは、その問題です。[212-213]
「また私には、愛のなかに、自己の存在を盲目的に束縛するということよりも、もっと恐ろしい危険が含まれているように思われます。それは、深く愛されるときには、他人の存在を左右する立場にたつという危険です。私の結論は、愛を避けなければならないということではない。ただ愛を求めてはならない。(略)」[213-214]

このシモーヌの「愛」から「よりも」という比較級を加藤はすくい取る。なぜなら、この比較がヨーロッパの愛の精神にほかならず、非ヨーロッパの人間である加藤が見い出さざるを得ないところだからだ。
自己を盲目的に束縛するよりも、もっと怖しいというこの文章のなかの比較級には注意する必要がある。なぜ他人の存在を左右する立場の方が、もっと怖ろしいのか。(略)ここでは比較級が、直接に、魂の、また心の質をあらわしている。そう感じる人間もあり、そう感じない人間もある。シモーヌ・ヴェーユはそう感じる人間であったということだ。もちろんそのこととキリスト教とは、少なくとも歴史的には、深い関係があるにちがいない。[214]

シモーヌは、他人の存在を左右するほうが怖しい、しかし、自己の束縛のほうが怖しい人もいる。ここに着眼点を「現代ヨーロッパの精神」の現れとして着眼した加藤は鋭い。
僕自身は、これは相互的、つまり、「他人を左右することと自己の束縛は互いに同じ分だけ同時に起こる」ように感じる。それは「対」であり、「アジア」あるいは西洋の対置としての「東洋」の精神なのかもしれない。


本書の全体を通して


本書を通じて、加藤が一貫して、「矛盾する立場に自らを置き、その中でもがきながらも鮮明さを打ち出す者たち」を愛でている事がわかる。そのものたちの集約される場所は「連帯」である。この連帯は、立場の異なるもの、同胞でないものの人権を尊重し、友としてあるということだ。加藤が愛でる人物たちは、「人間の精神」が現実の状況によって危機に陥った時にもがき苦しみながらもなんとか打開しようと連帯を模索する。

このこと自体については、異論はない。
しかし、なぜか本書に対してどこか物足りないものを感じ続けている。

それはおそらく加藤自身の、日本人として「外」からヨーロッパを眺め、それを「紹介する」という「さばけた視線」から来ている。その視線が鋭いものであることは確かであり、それについての信頼は持てるが、その視点がある場所そのものへの関心の乾きがある。

本書はバランス感覚に飛み、高い精密さを持った良質の「現代(冷戦時代)ヨーロッパ」ガイドブックである。これは加藤が旅行者であり輸入者であり、最終的に紹介者であろうとするためだろう。

そのバランス感覚の高さゆえに、書かれているものへ入り込もうとすればするほど、没入の度合いにバランスさせるために、外へ押し出されるようなところがある。それは書かれているものの「外へ」(つまり「読めない」「読まない」)ではなく、加藤の紹介者の視点に導かれる。僕はそういった紹介者の立場をおそらくどこかつまらなく感じている気がする。「外から愛でたい」のではなく、自分自身のものとして体験したい、あるいは単に、自分自身の場所からで在りたいのだという欲求が、本書を読むことで無意識的に掻き立てられてしまうのだと思う。

このことから逆に本書の位置がわかる。バランス感覚というところに通じるが、本書の重要なところは比較の深さだと思う。加藤はこの時代のヨーロッパの様々な「精神」について、それぞれにかなりの深度を持った視野があり、その深度において比較している。比較対象の深度にばらつきがあれば、それは比較ではなくなる。比較はその対象それぞれで同じ深さで切る断面であり、比較の質はその深さに応じる。自分の周りだけ深く見て、それに並べる相手については浅くしか見なければ、相手についての記述は単に恣意的な材料に過ぎず、誤謬に陥る。加藤の自制はそこにあり、徹底した紹介者として比較可能な立場にとどまる。これが本書の位置である。本書を読めば、この時代のヨーロッパの精神を比較によって知ることができる。日本人の読者としてその多くは「外」にあるもので、「外」を知ることができる。
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