2016年2月14日 資料・発表:大谷隆
祭儀論
前章の他界論は〈死〉を扱っていた。〈死〉では人間の自己幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想から〈侵蝕〉されるからだという点にもとめられる。ここまできて、わたしたちは人間の〈死〉とはなにかを心的に規定してみせることができる。人間の自己幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想に〈侵蝕〉された状態を〈死〉と呼ぶというふうに。[122]
しかし、この吉本の定義は、国家成立以前の状態という前提がある。そのため、以下の条件がつく。
近代社会では〈死〉は、大なり小なり自己幻想(または対幻想)自体の消滅を意味するために、共同幻想の〈侵蝕〉は皆無にちかいから、大なり小なり死ねば死にきりという概念が流通する。[122]
祭儀論では〈生誕〉を扱う。
人間の〈生誕〉にあずかる共同幻想が〈死〉にあずかる共同幻想と本質的にちがっているのは、前者が村落の共同幻想と〈家〉での男女のあいだの〈性〉を基礎にした対幻想の共同性の両極のあいだで、移行する構造をもつことである。そしておそらくは、これだけが人間の〈生誕〉と〈死〉を区別している本質的な差異であり、それ以外のちがいはみんな相対的なものにすぎない。[149]
描かれてはいないが、こちらも当然「近代社会では」という場合は異なった様相をしているはずであり、そのことに注意する必要がある。また、その上で考えなければならないが、この書き方「前者が村落の共同幻想と〈家〉での男女のあいだの〈性〉を基礎にした対幻想の共同性の両極のあいだで、移行する構造をもつことである。」が非常にわかりにくくなっている。
吉本がこの章を書いた意図は、少年時代の戦争体験(軍国少年としての)にあり、その大日本帝国の思想的中心として天皇をとらえているからで、その権威の発生源としての大嘗祭どうにかして相対化したかったのだろうということは読み取れる。
母性論
ただ原始的〈母系〉制社会の本質が集団婚にあるのではなく、兄弟と姉妹のあいだの〈対なる幻想〉が種族の〈共同幻想〉に同致するところにあり、この同致を媒介するものは共同的な規範を意味する祭儀行為だということが大切なのだ。そして〈母系〉制の社会はこういった共同的な規範を意味した祭儀行為を、種族の現実的な規範として、いいかえれば〈法〉としてみとめたとき〈母権〉制の社会に転化するということができる。[165]わかりにくい。
〈兄弟〉と〈姉妹〉のあいだの〈対なる幻想〉は、自然的な〈性〉行為に基づかないからゆるくはあるが、また逆にいえばかえって永続する〈対幻想〉だともいえる。そしてこの永続するという意味を空間的に疎外すれば〈共同幻想〉との同致を想定できる。これはとりもなおさず〈母系〉制の社会の存続を意味している。[172]
兄弟、姉妹が性的関係にないことから母系社会をいうのは話としては面白いと思った。