【15】吉本隆明『共同幻想論』第3回レジュメ

2016.2.14 小林作成

□巫覡と巫女の違い

吉本は、巫女とシャーマン(前章巫覡とほぼ同様の存在)の違いを幻想領域の違いとして説明する。

巫女がもっている能力が、共同幻想をじぶんの〈性〉的な対幻想の対象にできる能力なのに、シャーマンの能力は自己幻想を共同幻想と同化させる力だということだ。[112]
ここからそれぞれシャーマンについては、ニオラッツエの例をもとに
シャーマンが男であれ女であれ、〈性〉が問題なのではなく〈異常〉な言動ができる人間が問題なのだ。そこでは個人の〈異常〉な幻想が共同幻想に憑くために、自覚的な伝授と修練がおこなわれるのである。[113-114]
重要なのは、この心の〈異常〉が発言する場面で、部落の共同幻想に馴致することである。修行シャーマンが老シャーマンから伝授される〈秘事〉は、心の〈異常〉をつくりだす技術であるとともに、なにが部落にとって共同幻想の実体化という伝承的な理念だというのは推定するに難くない。[115]
として巫女との違いをあげていく。ほかにも、シャーマンになるには、少なくとも自己幻想と共同幻想の間にある溝である〈虚偽〉を「シャーマン個人の内部で消滅するまで心的につきつめられなければならないはず」とし、一人前のシャーマンになったときにそれまでの異常な精神状態が管理することを「自己幻想が共同幻想に同致したことを意味した表現」という説明がされている。

巫女については
日本の口寄せ巫女は、超能力を持った幻想的な〈性〉そのものになることを要請されるにである。[116]
巫女が神社に寄生するか、諸国を放浪して、村落共同体の片隅に口寄せ巫女となって生きるかの二者択一以外の道をたどれないのは、彼女たちが現世的な〈家〉の体裁をかまえるかどうかにかかわりなく、共同幻想を、架空の〈家〉を営む〈異性〉として択ぶべき本質をもっているからである。巫女にとって〈性〉的な対幻想の基盤である〈家〉は、神社にいつこうが諸国を放浪しようが、つねに共同幻想の象徴と営む〈幻想〉の〈家〉であった。巫女はこのばあい現実には〈家〉から疎外されたあらゆる存在の象徴として、共同幻想の普遍性へと霧散していったのである。[117]
としている。共同幻想と自己幻想を一致させるシャーマンについてはわかるが、共同幻想を自分の対幻想と一致させる巫女というのがわからない。共同幻想をじぶんの対幻想と一致させる、ということはありえるのか? 

対幻想とは、「一対の男女の〈性〉的関係にあらわれる」[85]、心の相互規定性を持ったもの、ではなかったのか? 共同幻想と、「勝手に消し去ることのできない綜合的存在という関係」[85]になるとはどんな状態なのか? 後の章で対幻想を、さしあたって「社会の共同幻想とも個人のもつ幻想ともちがって、いつも異性の意識でしか存在しえない幻想性の領域」[183 対幻想論]としているから、対幻想という概念は巫女論序盤のフロイトの見解が前提となっている。

□共同幻想を異性としてみる巫女の対幻想

対幻想自体や、対幻想と共同幻想の関係がなんなのかをを解き明かすのは、対幻想論までまつとして、吉本が巫女の対幻想を捉えるために活用したフロイトによる女性の規定と、そこから導き出した女性の本質は、下記に集約されている。

フロイトにならっていえば、最初の〈性〉的な拘束が同性であった心性が、その拘束から逃れようとするとき、ゆきつくのは異性としての男性か、男性でも女性でもない架空の対象だからだ。男性にとっての女性への志向はすくなくとも〈性〉的な拘束からの逃亡ではありえない。母性にたいする回帰という心性はありうるとしても、男性はけっしてじぶんの〈男性〉を逃れるために女性に向かうことはありえないだろう。[103]
あらゆる排除をほどこしたあとで〈性〉的対象を自己幻想にえらぶか、共同幻想にえらぶものをさして〈女性〉の本質とよぶ[103]
「性的な拘束」を「乳幼児期に世話をされること」とすれば、最初に自分の心体に大きな影響を与えるような関わりをする相手が同性か異性か、というのが大きな違いだということまではうなづける。が、「性的な拘束からの逃亡」がまるで必然のように入ってくるのは何なのか?このくだりは要るのか?

 いくつか考えたが、これは自分も他者も共同幻想そのものとして見る度合いが女性は高くて、男性は低い、とするほうが良いのではないだろうか。世代の移り変わりをイメージしてみると、子孫とつながっている共同幻想の濃さは圧倒的に女性の方が高いはずだ。フロイトのいう乳幼児の拘束は、細かく分ければ三つに分けられて、一つは女性の体内で子どもが肉体を形作ること、二つ目は体内で育つ子どもは母親の精神を直接的に感受する環境であること、三つ目は最小限に見積っても産後の授乳などの世話は主に女性がすることだ。三つ目の中に世話をする中でかけられる言葉なども想定すると、これだけの違いを持っても、男性と女性では生まれてくる子どもへの精神的な関与の度合いが大きく異なっていることがわかる。

 子どもを生む女性も、その母親から同じように育てられ、その母親も…という流れをイメージすると、女性の存在が子どもへ与えている影響、逆に言えば女性がそうした世代の移り変わりの条件から受けている影響は、少なくはない。もちろん、共同幻想を形成するのは出産にまつわることだけではないが、原初的な共同幻想の発展を考えれば、男性と女性という性的な差が共同幻想に与える影響は決して小さな違いではないことがわかる。

 この、〈女性自身〉も〈女性を見る男性〉も、女性という存在そのものが持っている共同性を、意識的にしろ無意識的にしろ土台となって共同体が運営されている点に、だから、「なぜ女性が共同幻想をまるで性的な対象として択ぶかのように自己を一致できてしまうのか」という問いの答えが含まれているように思う。少なくとも「性的な拘束からの逃亡」という一個人の心理的な傾向や動きから解釈をするよりは。そしてこれは、網野善彦が無縁の存在として「女性」を取り上げていたこととも結びつくように思われる。

□対幻想の高度さと未熟さとは

聖テレサの心的な融合体験が『遠野物語拾遺』の〈巫女〉譚よりも高度だと考えられる点は、すくなくともふたつあげられる。ひとつはこの〈聖女〉の〈性〉的な対幻想の対象である〈神〉は、きわめて抽象された次元にあることだ。(中略)『遠野物語拾遺』の〈巫女〉では(中略)あらわれた〈神仏〉は実在の観音像や堂祀の仏像の、ある模写の段階をそれほどでてはいない。もうひとつは聖テレサが自己喪失の状態で疎外するのは、自足した〈恍惚〉だということである。この〈恍惚〉状態は自己性愛と共同性愛との二重性をふくんでいる。(中略)幻想の性的な対象が〈面白さ〉としてしか疎外されないのは、未熟な対幻想に固有なものだといえる。[109-110]
この未熟とか高度、というのはどういう立場からなのだろうか? 少なくともぼくには、どちらが高度でどちらが未熟というようには見えない。ある共同体が抽象性をどの程度取り扱えるのかが物質的な発展を遂げる諸段階に影響している、という立場から高度とか未熟というのであれば理解できる。共同体の中で〈面白さ〉が価値や意味を持つということに、未熟さ以外のものを感じている。

他界論

この「他界論」で吉本は、いよいよ序にあるような、日本国という共同幻想が成立する由縁に第一歩目を踏み出していく。

自己幻想や対幻想のなかに〈侵入〉してくる共同幻想はどういう構造か[118]
〈死〉では人間の自己幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想から〈侵蝕〉される[122]
人間の自己幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想に〈侵蝕〉された状態を〈死〉と呼ぶ[122]
それが無であろうと、宗教的な天国と地獄のようなものであろうと、死後の世界という概念自体が〈他界〉という幻想であり、それが共同幻想の彼岸に描かれる共同幻想だと吉本はいう。

そして、具体的に自己幻想に〈死〉という共同幻想が進入する例として、鳥御前の物語をあげ、鳥御前が死ぬ原因について

共同幻想が自己幻想の内部で、自己幻想をいわば〈侵蝕〉するという理由によって説明することができる。[124]
とする。
また、ブリュルのあげるアメリカ土人が呪いのかかった武器で傷をつけられたくらいで死にいたるという例について、

わたしのかんがえでは、〈融蝕〉の原理で死ぬのではなく、未開人の自己幻想が共同幻想(呪力)に〈侵蝕〉されることで、いわば心的に〈死〉ぬのである。そしてかすり傷くらいで〈死〉んでしまうのは、未開人では自己幻想と共同幻想とは未分化なため、この〈侵蝕〉が即時的におこりうるからである。[125]
ブリュルのあげている未開人の世界では〈他界〉観念はいたるところにあり、だから疎外された幻想としては存在しないのだ。[125]
としている。
ここで思い出すのはアニメ映画「もののけ姫」だ。自然とつながりの深い共同幻想を持っていた時代、人は呪いを受けたり、祟りで死んだり、動物と話せたり、山の神を見ることができた。しかし、共同幻想が少しずつ自然から離れていくに従って、そういった幻想を感じられるのは一部の特殊な能力を持った人に限定されていった。そして、そういった特殊な能力者すら、ほとんど共同体の中で生きられないような状況になったことを指して、「神が死んだ」と言うことができるのではないだろうか。

 また同時に、以前まるネコ堂で話しているときに、人の脳は誰かが傷ついたり悲しんだりしていると、それらを自分の体内で再現しようとする細胞があって、ぼくたちはその情報をカットしているという話を思いだした。ミラーニューロンという、他者の行動や感情をマネしようとする脳細胞があるらしいが、そういった分野から見れば、これは幻想という言葉で説明するにはそぐわない、生理的・心的な現象だという観点から見ていくこともできるのかもしれない。

そしてまさに現時点で、ぼくとしては幻想という言葉が持っている「まやかし」のような響きが邪魔になってきていて、吉本が幻想という言葉を使ってまで否定しようとしたものに興味を持ち始めている。そしてそれは次の箇所に表れている。

 死者の骨が土壌に霧散したとき、現世のひとびとにとってひとつの〈他界〉が消滅したかにみえる。しかし真に消滅したのではなく、じつは骨を粉砕してばらまいた村落の近縁者の自己幻想の内部に〈他界〉が再生したにすぎない。真に〈他界〉が消滅するためには、共同幻想の呪力が、自己幻想と対幻想のなかで心的に追放されなければならない。
 そして共同幻想が自己幻想と対幻想の中で追放されることは、共同幻想の〈彼岸〉に描かれる共同幻想が死滅することを意味している。共同幻想が原始宗教的な仮象であらわれても、現在のように制度的なあるいはイデオロギー的な仮象であらわれても、共同幻想の〈彼岸〉に描かれる共同幻想が、すべて消滅せねばならぬという課題は、共同幻想自体が消滅しなければならぬという課題といっしょに、現在でもなお、人間の存在にとってラジカルな本質的課題である。[135]
前回のゼミで発言したとおりぼくは、「共同幻想」を消滅あるいは発生しないようにすることは、不可能だと思っている。人間が複数人集まっただけで、自然に一つの共同性を帯びてしまうからだ。それは、複数人が集まった言語空間では、それぞれが自分のことしか話していなくても勝手に一つの表現として統合されてしまう状況と似ている。問題はおそらく、この章で取り上げられていたように共同性が良くも悪くも個人を侵食するということだ。そういった構造を、現代に起こっている様々な現象に当てはめて明確に見ることができるようになること、それを踏まえた上で人と人が関わりあうことが、吉本のしたかったことではないだろうか。



2016年2月14日 資料・発表:大谷隆

以下、本書に対する僕自身の位置付けと思いつきのメモです。

1 本書は原始的あるいは未開的な共同の時代から始まり、国家成立以前を描いている。
本書では、やっと原始的なあるいは未開的な共同の幻想の在りかたからはじまって、〈国家〉の起源の形態となった共同の幻想にまでたどりついたところで考察はおわっている。つまり歴史的な時間になおしていえば、やっと数千年の以前までやってきたわけである。[後記 265]
2 この時期において吉本は人の共同体への帰属意識はかなり強いと暗黙に前提している。

3 本書で描かれる共同幻想のもつ個人幻想への滲入力は〈現代〉においても十分に威力を持つことは事実である。

4 しかし、僕自身が〈現代〉的状況と見ているものは、どのような共同体に所属しても常に「ここではなかった」という「はみ出し感」があるということである。

5 この〈現代〉的状況は、吉本のいう個人幻想が肥大化した状態とも言える。

6 『言語にとって美とはなにか』は、徹底的に個人幻想の領域を描き、その表現としての上昇を追ってきた。

7 僕にとって「言語美」のもつ方向感は体感と重なり「共同幻想論」のもつ方向感は〈現代〉から見て後退感がある。(共同体の拡大は冷戦時代(二強時代)にピークを迎えたのかもしれない。その後、僕たちは「宇宙船地球号」的な「地球市民」感は得られていない。)

8 僕が本書に対して通底して持つ前時代感は、吉本が前提している共同体への「強い」帰属意識に対して、その〈弱まり〉を〈現代〉的と捉えていることからくる本書の「前提」へのゆらぎである。

9 「共同幻想論」の前提に抜け落ちているのは無縁の原理である。本書は網野善彦『無縁・公界・楽』と相補的関係にある。

10 網野のすくいあげた無縁の原理は、たとえその原理をまとった人々もまた共同性の原理に寄生しがん細胞のように育つほかなかったにしろ、共同性(有縁)の原理に対して鋭く対立する。共同体への逃れられない帰属意識に対して文字通り無縁でいることがその原理である。

11 〈現代〉は、主に物的インフラ(水・エネルギー・情報)によって、部分的に、無縁がゾンビ的に蘇りつつある。一方の極にBライフ、ミニマリストを、もう一方の極にNHK「無縁社会」を持つ扇型の「はみ出し感」として無縁は再び生じつつある。

12 「共同幻想論」が「無縁・公界・楽」と相補的であるというのは、吉本自身の立場が一貫して無縁的であること、そうあろうとしたことからもわかる。常に独立的に思考を続け、従来の文学批評という平面領域に対して完全に無縁な立体的立場として理論を打ち立てた。

13 吉本が「共同幻想論」を書いた理由は、強大な共同幻想から自己幻想への滲入と混和の現象を相対化したかったためだ。

14 しかし歴史家でない吉本は、自身の少年時代・戦争時代の体験を元にするほかなかった。あるいは網野善彦ではなかったため、当然、無縁の原理を共同体のもう一つの基礎として位置づけることができなかった。

15 ただ、吉本の洞察は鋭く、共同体について書かれた本書の大部分は、対象として無縁そのものに重なり、その部分が共同体の輪郭を形成していることは気づいていた。例えば、禁制、巫女、他界など。無縁の原理が扱ってきた領域である。共同性のもつ臨界平面にたいして、無縁はそれを行き来できる。

16 吉本の洞察力の源泉が個人幻想・自己表出であることからの類推として、個人幻想や自己表出が無縁と大きく関わっている可能性がある。

17 個人幻想から共同幻想へと引いた線(あるいは自己表出から指示表出へと引いた線)は、無縁から有縁へと引いた線と、共同幻想(指示表出)・有縁で直角に交わる、といえるかも?

いずれ、この二書を元に何かをまとめてみたいと思う。



第3回 吉本隆明「共同幻想論」

2016年2月14日 山根澪

巫女論

<巫女>とはなにか?[102]
<巫女>は、共同幻想をじぶんの対なる幻想の対象にできるものを意味している。いいかえれば村落の共同幻想が、巫女にとっては<性>的な対象なのだ。[102]

吉本はフロイトに言及しながら、<女性>を定義づけていく。
<女性>というのは、乳幼児期の最初の<性>的な拘束が<同性>(母親)であったものをさしている。(略)最初の<性>的な拘束が同性であった心性が、その拘束から逃れようとするとき、ゆきつくのは異性としての男性が、男性でも女性でもない架空の対象だからだ。男性にとって女性への志向はすくなくとも<性>的な拘束からの逃亡ではありえない。[103]
<女性>が最初の<性>的な拘束から逃れようとするとき、男性以外のものを対象として措定したとすれば、その志向対象はどういう水準と位相にならなければならないだろうか?
あらゆる排除をほどこしたあとで<性>的対象を、自己幻想にえらぶか、共同幻想にえらぶものをさして<女性>の本質とよぶ、と。そしてほんとうは<性>的対象として自己幻想をえらぶ特質と共同幻想をえらぶ特質とは別のことを意味してはいない。なぜなら、このふたつは、女性にとってじぶんの<生誕>そのものをえらぶが<生誕>の根拠としての母なるじぶん(母胎)をえらぶことにほかならないからである。[103]

そして、<女性>であることが意味をもつ<巫女>とは。
たんに男<巫>にたいして女<巫>というとき、この巫女には共同的な権威は与えられていない。けれど自己幻想と共同幻想がべつのものではない本質的な巫女は、共同性にとって宗教的な権威をもっている。[104]

<巫女>を<聖女>、シャーマンとの違いから明らかにしようとする。
聖テレサの心的な融合体験が『遠野物語拾遺』の巫女譚よりも高度だと考えらる点。[109-110]

  1. <聖女>:<性>的な対幻想の対象である<神>は、きわめて抽象された次元にあること。<巫女>:<神仏>は実在の観音像や堂祀の仏像の、ある模写の段階をそれほどでてはいない。
  2. <聖女>:自己喪失の状態で疎外するのは、自足した<恍惚>状態だということである。この<恍惚>状態は、自己性愛と共同性愛の二重性をふくんでいる。そして重要なのはこの<恍惚>状態が成熟した対幻想に固有なものだというこである。<巫女>:自分の幻覚のなかで疎外するのは<面白さ>である。(略)<面白さ>が至上の対幻想であり、共同幻想との<性>的関係でありうつるのだ。


疎外とは(ウィキペディアより)
哲学、経済学用語としての疎外(そがい、独: Entfremdung、英: alienation)は、人間が作ったもの(商品・貨幣・制度など)が人間自身から離れ、逆に人間を支配するような疎遠な力として現れること。またそれによって、人間があるべき自己の本質を失う状態をいう。

シャーマンとの違い。[112-116]

  1. <シャーマン>:シャーマンの能力は自己幻想を共同幻想と同化させる力[112]かれの自己幻想が、他の人間でも、神でも、狐や犬神でも、ようするに共同幻想の象徴に同化することで、部落共同体の共同利害を心的に構成できる能力にあるのだ。[114]<巫女>:共同幻想をじぶんの<性>的な対幻想の対象にできる能力[112]
  2. <シャーマン>:男であれ女であれ、<性>が問題なのではなく<異常>な言動ができる人間が問題なのだ。[113]<巫女>:自己幻想として<異常>であるかはまったくどうでもいいことだ。[115]自己幻想よりも<性>を基盤にした対幻想が本質だという点である。[115]シャーマンは部落にとって超能力をもった人間になるのを要請されるのだが、日本の口寄せ巫女は、超能力をもった幻想的な<性>そのものになることを要請されるのである。[116]

巫女にとって<性>的な対幻想の基盤である<家>は、神社につこうが諸国を流浪しようが、つねに共同幻想の象徴を営む<幻想>の<家>であった。巫女はこのばあい現実には<家>から疎外されたあらゆる存在の象徴として、共同幻想の普遍性へと霧散していったのである。[117]
「最初の<性>的な拘束が同性」であった女性が、じぶんの<性>的対象、<対なる幻想>として共同幻想をえらばざるを得ない状況になったとき、「自己幻想と共同幻想がべつものものではない本質的な巫女」は、自己幻想=共同幻想=対幻想という状態になる。

「<性>的な拘束が同性であった心性」[103]について、少し別の角度から。
【女性について(1)】〈女性〉とは、最初に愛し愛された人間が〈同性〉である者のことを言う。反対に〈男性〉とは、最初に愛し愛された人間が〈異性〉であるもののことを言う。
【女性について(2)】この場合、〈同性〉も〈異性〉も、大概は、〈母親(女性)〉のことを指している。従って、男性は思春期の異性イメージの原型を〈母親〉再生するだけでよい。が、女性は、そう単純にいかない。最初に愛し・愛された者が「同性である」女性だからだ。
【女性について(4)】さて、その女性は〈同性である母親〉から〈異性である父親〉への移行を通じてしか異性原型が出来ない。同性への愛は基本的には(=対他、対自的には)禁じられているからだ。
芦田の毎日「【第二版】女性とは何か ― 女性にとって男性とは何か」より。 http://www.ashida.info/blog/2010/10/post_397.html

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