【15】吉本隆明『共同幻想論』第1回レジュメ

作成2016/01/17 小林健司

・ひとつの個体が持つ心的世界は複数の個体があつまったときにどのような変貌をとげるのか

フロイトは人間の〈性〉的な劇をまったく個人の心的なあるいは生理的な世界のものとみなした。このかんがえには疑問がある。ごくひかえめに見積っても、この〈性〉的な劇を〈制度〉のような共同世界にまでむすびつけようとするときには疑問がある。そこで人間の〈性〉的な劇の世界は、個人と他の個人とが出遇う世界に属するもので、たんに個体に固有な世界ではないと考えられるべきである。そしてこのフロイトの指している心の世界は〈対なる幻想〉の世界とよぶことができる。[43]
吉本はフロイトの心理的視点からの考察を、「心理的なかんぐりで解釈」したものとして退け、個体の持つ心的な世界と、個体同士が出遇って生まれる心的な世界とを明確に切り分ける。これは、一人の人間が文章で自己の世界を形にするときには、当然一人の人間の心的世界を表すものとして表現されることになるが、対話あるいは集団での話し合いの場で共通の認識や体験を形作るときには、個体の持っている心的な世界が加算的に集まって作られるのではなく、個体と個体の心的世界が相互に影響を受けあいながら、ある種融和するような形でつくられていく現象と重ねて理解することができる。

序で、吉本は文学の表現から出発して個体のとりうる位相に注目するが、これには、ひとりの個体に対する他者の存在が前提となっている。

言語の表現としての芸術という視点から文学とはなにかについて体系的なかんがえをおしすすめてゆく過程で、わたしはこの試みには空洞があるのをいつも感じていた。ひとつは表現された言語のこちらがわで表現した主体はいたいどんな心的な構造をもっているのかという問題である。もうひとつは、いずれにせよ、言語を表現するものは、そのつどひとりの個体であるが、このひとりの個体という位相は、人間がこの世界でとりうる態度のうちどう位置づけられるべきだろうか、人間はひとつの個体という以外にどんな態度をとりうるものか、そしてひとりの個体という態度は、それ以外の態度とのあいだにどんな関係をもつのか、といった問題である。[16]
自分がいままでやってきた文学理論の問題というのは、自己幻想の内的構造と表現の問題だったなと[25]
そして禁制論では、論理的に遡れる限りの時間軸を想定して、自己幻想から主に共同幻想へと位相を変えていく原初の姿を解こうとする。こういった幻想領域が、それぞれ詳細にどのようなものであるのかは、序の中にも語られているが、後の章を読むことで明らかになっていく構成となっており、ここではただ、禁制というテーマをたよりに、共同幻想の発生に目を向けていくことで十分である。

禁制にもまた〈自己なる幻想〉と〈対なる幻想〉と〈共同なる幻想〉を対象とするまったくことなった次元の世界があるのを前提にしなくてはならなくなる。そしてこの三つの異なった世界も未開のはじめには、とても錯合しているかもしれないから、フロイトのように〈敵〉なるもの、〈王〉なるもの、〈死〉なるものというように、はっきりとりだすことはできない。[46]
吉本は、それぞれの章のテーマについて、なぜこの順番なのか、なぜ他のテーマではなくこのテーマでなくてはならなかったのかについて、ほとんど説明を加えていない。しかし、人間の幻想領域をあつかう本書で「タブー」を冒頭に置くことにはそれなりの説得力を感じる。共同体を維持していく上で、もっとも原初的で核心的なテーマだからだ。触れてはいけないなにかを共同体が設置するとすれば、それはその共同体の維持にとって致命的に重要な事柄である可能性は高い。

ここで問題なのは禁制もまた、共同性をよそおった黙契とおなじみかけであらわれることだ。このときにはなんによって、共同の禁制と黙契とを区別できるだろうか? 共同の禁制は制度から転移したもので、そのなかの個人は〈幻想〉の伝染病にかかるのだが、黙契はすでに伝染病にかかったものの共同的な合意としてあらわれてくる。 〜中略〜 個人がいだいている禁制の起源がじつは、じぶん自身にたいして明瞭になっていない意識からやってくるのだ。知識人も大衆もいちばん怖れるのは協同的な禁制からの自立である。この怖れは黙契の体系である生活共同体からの自立の怖れと、自分の意識のなかで区別できていない。べつの言葉でいえば〈黙契〉は習俗をつくるが、〈禁制〉は〈幻想〉の権力をつくるものだ。[48] 
そしてこの種の山人譚で重要なことは、村落共同体から離れたものは、恐ろしい目にであい、きっと不幸になるという〈恐怖の共同性〉が象徴されていることである。村落共同体から〈出離〉することへの禁制(タブー)が、この種の山人譚の根にひそむ〈恐怖の共同性〉である。[59] 
それでも心の禁制をやぶって出奔するものも、そういう事情も、現実にあったということを、この種の山人譚は暗示しているようにおもわれる。[60]
強い願望の対象となりながら、同じだけの強さの恐怖の対象として存在するところに、タブーの性質がある。共同体の中で一度禁制として成立した概念は、その共同体に所属する個体に合意されたものとして「伝染」していく。そしておそらく禁制は、共同体の拡大にともなって強さをましていく。

個人的な体験に引き寄せて考えれば、ある組織が誕生した瞬間には禁制らしいものはほとんどなく、組織の発展にともなって禁制は増えていく。現代では、山人譚のような「お話」として禁制の正しさを主張する必要はない。経済的な意味において共同の幻想が十分な強さを持っているからだ。なので、禁制の正しさは、ある行動や発言がどの程度の経済的損失を生み出すのかで十分な説得力を持つ。(これは、時代が下るほど単純な金銭的な価値だけでなく、生産性などもふくめた最終的な結果から考えられるものにまで範囲が広がっているように思われる)



2016年1月17日 資料・発表:大谷隆 

本書は、雑誌「試行」に「言語にとって美とはなにか」の後に連載されたものを書籍化したものである。吉本がどのような目的でこれを書いたのか、複数の「序」にそれが伺える。

国家は共同の幻想である。風俗や宗教や法もまた共同の幻想である。もっと名づけようもない形で、習慣や民俗や、土俗的信仰がからんで長い年月につくりあげた精神の慣性も、共同の幻想である。人間が共同のし組みやシステムをつくって、それが守られたり流布されたり、慣行となったりしているところでは、どこでも共同の幻想が存在している。そして国家成立の以前にあったさまざまな共同の幻想は、たくさんの宗教的な習俗や、倫理的な習俗として存在しながら、ひとつの中心に凝集していったにちがいない。この本で取り扱われたのはそういう主題であった。[角川文庫版のための序7]

本稿の基本になっているわたしのモチーフは、具体的な場面では、ふたつあった。ひとつは、個々の人間が、共同観念の世界、たとえば政治とか法律とか国家とか宗教とかイデオロギーとかの共同性の場面に登場するときは、それ自体が、相対的には独立した観念の世界として、扱わなければならないし、また扱いうるということである。そう扱わないことから起こる悲喜劇は、戦争期にしこたま体験してきたし、また、本稿の発表から現在までの四、五年のあいだにも、まざまざと体験したことであった。当然このことと関連するわけだが、もうひとつのモチーフは、個々の人間の観念が、圧倒的に優勢な共同観念から、強制的に滲入され混和してしまうという、我が国に固有な宿業のようにさえみえる精神の現象は、どう理解されるべきか、ということである。[全著作集のための序10-11]

言語の表現としての芸術という視点から文学とはなにかについて体系的なかんがえをおしすすめてゆく過程で、わたしはこの試みには空洞があるのをいつも感じていた。ひとつは表現された言語のこちらがわで表現した主体はいったいどんな心的な構造をもっているのかという問題である。もうひとつは、いずれにせよ、言語を表現するものは、そのつどひとりの個体であるが、このひとりの個体という位相は、人間がこの世界でとりうる態度のうちどう位置づけられるべきだろうか、人間はひとりの個体という以外にどんな態度をとりうるものか、そしてひとりの個体という態度は、それ以外の態度とのあいだにどんな関係をもつのか、といった問題である。(改行)本書はこのあとの場合について人間のつくりだした共同幻想という観点から追及するために試みられたものである。ここで共同幻想というのは、おおざっぱにいえば個体としての人間の心的な世界と心的な世界がつくりだした以外のすべての観念世界を意味している。いいかえれば、人間が個体としてではなく、なんらかの共同性としてこの世界と関係する観念の在り方のことを指している。[序16]
特に表現の問題で言えば、政治的な表現もあり、思想的な表現もあり、芸術的な表現もあるというふうに、個々にばらばらに見えていた問題が、大体統一的に見えるようになったというようなことがあると思うんです。(改行)その統一する視点はなにかといいますと、すべて基本的には幻想領域であるということだと思うんです。[序24]
結局、吉本さんの意図というものは、人間の全体的なあらゆる契機というものをすぐ簡単に別なものに還元して説明できたというふうにせずに、あらゆる契機の内的な構造をはっきり、きちんと把握したいというふうにいっていいんでしょうか。(改行)いいと思いますね。[序33]
つまり、国家とはいったいどういうものなのか、を考えるときに政府や法といったすでに存在するものから横滑り的に語ったり、国家の成立をその当時の人口の増加や生産様式の高度化などといった外的要因に還元して語ったりするのではなく、人間の幻想として見る必要があると吉本はいう。ここでいう幻想は、人間が内部に持っている構造から生み出される観念といったような意味である。本書では、国家成立以前に国家にまで凝集していく共同の幻想の在り方と、それに対して個々の人間がどのように関係するのかを順次見ていくというふうに構成されている。

禁制論


本書の最初に位置することからわかるように吉本は、禁制(タブー)を「未開な心性に起源をもった概念」と見ている。禁制とは何か、どのように生まれるかを見ることで、人間にとって初期の共同幻想とはどういうものかもわかる。

禁制はすくなくとも個人からはじまって、共同的な〈幻想〉にまで伝染してゆくのだが、個人がいだいている禁制の起源がじつは、じぶん自身にたいして明瞭になっていない意識からやってくるのだ。知識人も大衆もいちばん怖れるのは共同的な禁制からの自立である。この怖れは黙契の体系である生活共同体からの自立の怖れと、じぶんの意識のなかで区別できていない。べつの言葉でいえば〈黙契〉は習俗をつくるが〈禁制〉は〈幻想〉の権力をつくるものだ。[48]

この「じぶん自身にたいして明瞭になっていない意識」や「生活共同体からの自立の怖れ」といった言葉は、この後、民俗譚を具体例に、よりはっきりとした、同時に身も蓋もない以下の表現となる。

わたしたちの心の風土で、禁制がうみだされる条件はすくなくともふた色ある。ひとつは、個体がなんらかの理由で入眠状態にあることであり、もうひとつは閉じられた弱小な生活圏にあると無意識のうちでもかんがえていることである。この条件は共同的な幻想についてもかわらない。共同的な幻想もまた入眠とおなじように、現実と理念との区別がうしなわれた心の状態で、たやすく共同的な禁制を生みだすことができる。そしてこの状態のほんとうの生み手は、貧弱な共同社会そのものである。[64]
「未開」ではないとされている現代においても、「現実と理念との区別がうしなわれた心の状態(入眠状態)」と「貧弱な共同社会」の条件が満たされれば「たやすく共同的な禁制を生みだすことができる」。たとえば過労状態にあるNPOや、過度な集中状態を作り出す講座、拘束的に設置される場など、その場や組織が貧弱であることによってタブーは発生しやすくなる。本書は、共同幻想が国家にまで凝集するということを人間の歴史的な経緯として追いつつも、それは昔々の話ではなく、現在も同じような流れが規模の大小を問わず発生しているとも言える。

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