【12】吉本隆明『言語にとって美とはなにか』1・2第10回レジュメ

(作成2015/12/27 小林健司)

わたしのかんがえでは、言語が情緒を表現しているようにみえるばあい、その理由を、こころの態度のなかの情緒におわせるのは誤解だとおもえる。おなじように言語の指示性におわせることもできない。ただ言語の自己表出性におわせられるだけだ。自己表出性といえば、ひとつの架橋(Brucke)だから、言語とこころの態度の両端にまたがり、そのどちらにも足をかけているようにみえる。でもひとたび表現芸術である作品をかんがえるばあいは、こころの態度と表出された言語とのあいだのかけ橋とかんがえるより、表現された言語のもつ構造とみたほうがいいのだ。[277]

おそらく心的現象論序説につながっていくであろう、こころと言語の関係について、ここでは立場という観点から簡潔にまとめられている。ぼくの現在のかんがえでは、言語表現をすること自体に心の態度はふくまれている。自己表出をすることが心的な像を外在化させる行為にほかならないからだ。書き言葉の表現芸術として見る場合には、そういった像の外在化の新旧・良し悪しをもんだいにする。話し言葉の表現芸術として見る場合には、像の外在化を聞き手がどれほどの強度と鮮明さで受け取ることができるのかがもんだいになる。そしてもちろん、話し言葉の場合には、聞き手の態度が表現自体に影響をあたえるほど大きな要素になる。

わたしたちは、言語が、機能化と能率化の度合をますますふかめてゆく事態にであっている。生産力は高度になり、生産関係はますます複雑になってゆくにつれて、言語の指示機能もまた高度になり能率化されてくる。そのためにはまた明晰だということをももとめられる。これは言語では語彙が多様化してゆき、個々の語彙には、ますます単一の明晰さをもとめられることを意味する。あるひとつの概念をあらわす語彙はふえる一方だが、それと一緒に個々の語彙は、あるひとつの概念と一対一で対応する記号化の作用をますますつよくされてゆく。[278]

産業語・事務語・論理の言葉、そして日常生活語のあらゆる部分で、言語が機能化してゆけばゆくほど、わたしたちのこころの内で、じぶんがこころの奥底にもっている思いは、とうてい言葉ではいいあらわせないという感じはつよくなってゆく。言葉が機能から遠ざかり、沈黙しようとするのだ。こういう言語の現代的な分裂が、生産力が高度になったり、生活が簡便化したといったような、それ自体が誰にもおしとどめえない方位によって救抜されるとはかんがえられない。それは幻想の共同性すべてにわたる根源からの隔たりと遠ざかりを問題にするほかはない。[278-279]

言葉の語彙がふえればふえるほど、心の奥底に持っている思いが言葉でいいあらわせない感じが強くなる、というのは、矛盾を含んでいるようで当然の帰結を示している。「個々の語彙が、概念と一対一で対応する記号化の作用をますますつよくされてゆく」と、それらの語彙で心の内を表現した途端に心的な像は記号化してしまうからだ。心の奥底の思いを記号化された状態とは、「かなしい」と言ったときに「心が痛んで泣けてくるような感じのこと」という辞書的な意味をそのまま当てはめられた状態を想定すると理解しやすい。そこでは、言葉の意味は概念として一致していても、個別の人生を生きる個体としての独自性は消失している。

ただ、こういう分裂(自身の価値に反して肯定したり否定したりすること)はつぎのばあいだけは、それぞれの個性のうちで成り立つ。つまり作品の資質(その作品を作った作者の資質)と、鑑賞者じしんお資質がどうしてもおりあえない矛盾のところまでつきつめられたときだ。これは、ただ創造者と鑑賞者が、じぶんのじっさいの生き方がもっている現在と歴史的な由緒を、摩擦がおこるまでちかづけたときにだけは意味をもっている。[312]

構成的か非構成か、営利か非営利か、という議論をするときに生じる不毛な感覚は、吉本がここでいうような分裂や摩擦をできるほど、対象を理解していなかったことによるものだったと思う。「NPOなんてくだらない」という営利主義の人間は、本当はNPOのことも営利主義のことも理解していない。おなじことは、構成的、非構成的な場作りを扱うときにもいえる。また、大した理解もしていないのに「対立するようなものではなく、結局は同じところを目指している」という場合にも、ほんとうに意味のある形での融和や議論はおこらない。ある作品を誰よりも理解している人こそが、その作品にもっとも嫌悪感をいだくことができる。もっとも尊敬をするような人だからこそ、もっともその人を否定する必要がある。そのような態度こそが信頼の置けるものだ。

親や大人に否定された子どもは、意味のある言葉を明瞭に話すことをやめ、内側へ閉じこもっていく。体も大人の言葉やはたらきかけに背を向け、拒否的になる。この時点で言葉を強制的に要求しても子どもは沈黙で答えるか、感情を削除した記号的な浮遊する言葉を最小の量で発するだけだろう。内側への撤退ですまなくなると、内側をみせないように表情を消しはじめる。さらに追い詰められると心を凍らせることによって自己を守ろうとする。あるいは行動化する。パニック状態になったり、暴力をふるったりするのだ。それでもまもりきれないときは自己を解離させる。[340 解説 芹沢俊介]
発語という言語表出の機会を奪われたとき、子どもは身体表出へとその機会を移行する場合がある。このことは発語レベルの言語表出において身体と声が連続的であることを告げているように思える。[342 解説 芹沢俊介]

 遠くない自分の体験として、ここで記されていることと大きく重なるような体験をした。自己表出を拒否される、あるいは歪めた形で受け止められる経験が重なると、次第に表現のなかの自己表出性は落ちていき、代わりに指示表出性が高まってゆく。そして、自己表出の低下がさらに進むと、質問に対して沈黙や最小限の指示表出によって答えるようになっていた。「指示表出性(いいたいことを相手に明瞭に伝えることおよびその姿勢)の停止や混乱や衰弱」という表現はかなり正確にその体験を描写している。

 おもしろいのは、そういった自己表出性の低下と身体的な機能低下とが重なっている点で、そのときのぼくは消化器官の機能低下や、味覚を感じる機能の低下なども同時に起こっていた。表情や姿勢までは自分ではリアルタイムに認識はできなかったが、他者からかけられる言葉から類推すると大きな関連性があったことは、ほとんど疑いようがない。

 「逆な現象」は塾で接している生徒を見ている中で目の当たりにしている。個別指導の塾で教えはじめた当初、ほとんど会話をせず、文脈と全く関係なく言葉を発したり、授業中に半分以上寝ていた生徒が、言葉を交わしていくうちに、今ではほとんど言葉を受け取る労力のない会話をするに至っている。

 双方向の言語空間においては、話し手と聞き手の相互作用によって、自己表出性と指示表出性の高低変化が生じ、それは身体的な連動を伴って、言葉の強弱や発語の明瞭さなどにまで影響している。そういった観点から見れば、空間内の人数が二人の場合は、そこで創られる言語表現はどちらか一方が話し続けたとしても二人の共同生成物だといえるし、複数人の人間がいる場合には、沈黙し続けている人の影響も含めた共同生成物だといえる。第8回のゼミで話が及んだ「聞かされ手」「話させ手」という視点は、そのまま複数人の居る場にも通じるものになっている。

 その意味で、円坐は人間存在の総合芸術表現の場だといえる。それは、歴史的連続性と、時間的・地理的断絶性を内包した個体としての人間というこれまでこの本で見てきた人間観に、相互に身体的・心的影響を与え合い受け合う人間存在という視点を加えて、初めて見ることのできる視界である。




2015年12月28日 資料・発表:大谷隆 

第Ⅶ章 立場


いよいよ「言語美ゼミ」の最終回である。最終章のタイトルがなぜ「立場」なのか。吉本は「言語の内部」に理論の中枢である自己表出を想定する。これによって吉本は(そして僕たちは)ある「立場」に立つことができる。

わたしがこの本でとってきた言語観に立場が象徴されているとすれば、そのいちばんおおきいのは、言語の内部に自己表出を想定することで、言語を一つの内的な構造とみなしたという点に帰せられる。(改行)これを言語学者は、言語の情動的な表現法とみなし、人間の心的な状態にのみ帰着させているが、わたしのかんがえではけっして正当とはいえない。(改行)わたしのかんがえでは、言語が情緒を表現しているようにみえるばあい、その理由を、こころの態度のなかの情緒におわせるのは誤解だと思う。おなじように言語の指示性におわせることもできない。ただ言語の自己表出性におわせられるだけだ。[Ⅱ-277]

この立場に立てば、言語を「人間の心的な状態にのみ帰着させ」ようとする論を捨てることが可能になる。さらに「指示性」とは、大雑把には「社会性」とも言うべきもので、言語の表現を、心的にでもなく、社会的にでもなく、言語の内部に帰着させている。ただ、このことは、言語の表現が心的なものや社会的なものに関わりのないことだというわけではもちろんない。

自己表出性といえば、一つの架橋だから、言語とこころの態度の両端にまたがり、そのどちらにも足をかけているようにみえる。でもひとたび表現芸術である作品をかんがえるばあいは、こころの態度と表出された言語とのあいだのかけ橋とかんがえるより、表現された言語のもつ構造とみたほうがいいのだ。[Ⅱ-277]

吉本は表現とは、芸術をつくるとはどういうことかを、リチャーズへの反論として確認する。

(リチャードの論を)やさしくいいなおせば、芸術をつくるということは、人間の心のなかにあって混沌とした無秩序のままのものを、秩序化することだ。そしてこれは人間の活動や反応を体制化することと対応しているということになる。(改行)ここから価値のある芸術作品は、人間のさまざまな活動をいちばんひろくつつみこみ、精神の体制化にどうしても付きまとってくる犠牲とか葛藤とか制限とかを、いちばんすくなくなるようにして秩序化をなし遂げている作品だといわれている。[Ⅱ-302]

これに対し吉本は、

リチャーズの議論でいちばん気になるのは、かれが人間の精神状態、行動と芸術をひとつの糸で無造作につなげていることだ。芸術作品についていわれていることと、精神状態についていわれていることと、行動についていわれていることが、混淆してひとつにされている。これはどうしても精神も倫理としてかんがえるところにゆきつく。犠牲、制限、葛藤といった倫理の言葉が芸術の価値をめぐってとびだしてくる。価値という表象の次元は、論理からいってじっさいの精神倫理とはじかにむすびつかないはずなのだ。[Ⅱ-302]
ここでは、リチャーズのかんがえから、ただ表現という思想がないことだけを問題にすえれば十分だとおもう。(略)
表現という表象は、リチャーズのように芸術を精神状態の秩序化(体制化)とかんがえても、そうでなくても、精神状態を精神状態の方へ、また行動の意識を行動の意識のほうへ、創造の意識を創造の意識の方へ押しかえすことで、じぶんじしんは精神状態のそとへあらわれるのだ。だから、倫理や活動の精神状態とそのままの糸で、芸術の表現とむすびつけることはできない。
(略)
言語の価値という概念は、そのまま文学の価値(芸術の価値)というかんがえにひろげられるだろうか?(改行)もちろん、できるはずだ。しかし、言語の価値という概念は、意識を意識の方へかえすことによってはじめて言語のうちがわで成り立つ概念で、その意味では言語は意識に還元される。しかし、言語の芸術的な表現である文学の価値は、意識に還元されない。意識のそとへ、そして表現の内部構造へとつきすすむ。そこでは、言語の指示表出は、文学の構成にまで入りくんだ波をつくり、言語の自己表出は、この構成の波形をおしあげたり、おしさげたりして、これにつきまとうインテグレーションをつくっている。だから言語の価値を還元という概念から、表出という概念の方へ転倒させることで、文学の価値はただ言葉のうえからは、とても簡単に定義することができる。自己表出からみられた言語表現の全体の構造の展開を文学の価値とよぶ。[Ⅱ-303-304]

文学の価値という観点において、社会主義リアリズムとシュルレアリスムを2つの極とし、

きりはなせない芸術と生活、別物ではない芸術と科学という考察も、功利が結果と目的とのイメージをもつとき、美となりうるという考察も、そこに論者の強力な現実の意思をおもいみれば、その考えが展開されてゆく過程を想定することは難しいことではない。ようするに、それだけのことは主張されている。(改行)文体と表現の位置とを区別しなければならず、文体は芸術であるが、芸術の価値は主体から遠ざかる表現の位置にあるという考えも、詩(文学)の価値づけを、人間のこころを感銘させる程度で決めてはならないという考えも、もし文学の歴史的なつみかさなりが、表現行為そのものを次第に一つの極の方へ登高させていった現実的な要因をおもいみれば、充分に存在を主張できる考えだといえる。ようするに、だが、ただそれだけのことだ。[Ⅱ-318-319]

と、両者とも「ただの自然過程の理論にすぎない」とする。ある芸術がたどるべくして辿った2つの別々の道の終点なだけで、この両極端の間に無数の道が描きうる。しかし、吉本の立場はそこに新しい道を加えることではない。

わたしたちが立場という時、それは世界をかえようという意志からはじまって世界についてさまざまな概念を変えようとするまでの総体を含んでいる。[Ⅱ-320]

(吉本の)理論は創造をはなれることによって立場と化し、はなれることによって創造そのものに近づくという逆立ちした契機をものにしようとしていた。それがどの程度に実現されているかはじぶんでいうべきではないとしても、だ。[Ⅱ-321]

吉本の理論による立場が、世界を、さまざまな概念を変えるとともに、創造とは別の場所に立ちつつも、そのことで逆に創造に近づいたことは表現の契機を思い浮かべれば間違いない。最後、言語を記号として見て「言語の固定された表現を極端に抽象的な機能に転化させてしまった」(p.324)ため「言語表現を対象とする」ことすら難しくなったサルトルの立場では、「言語にとって」美とはなにかを論じることがもはや困難であると示して本書は終わる。

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