2015年8月10日 資料・発表:大谷隆
■第4章 結論
モースはこれまで述べてきた「贈与」に関する事例を元に結論を出す。モースは現代を「貨幣価値に換算される価値」だけではなく、「贈与」の雰囲気を残している社会であると見ている。贈与と義務と自由が交じり合った雰囲気の中に相変わらずとどまっている。何もかもが売り買いという観点だけで分類されるまでにはまだなっていないわけで、これは幸いである。[393]資本主義が覆ってしまったように見える産業社会においても、
労働者はみずからの生命と労力を提供してきたのであるけれども、それは雇用主に対してばかりでなく、集団全体に対してしてもである。なおかつ労働者が、保健事業にも参加を義務付けられているのである以上、労働者が提供するサービスから恩恵を受けてきた人々は、雇用主が労働者に給与を支払っているからといって、その労働者に対してすべての借りを返したことにはならない。国家みづからが、共同体を代表=代行するものとして、労働者の雇用主とともに、それに労働者自身の参与も得て、労働者の生活にある一定の保障をなす義務を負うのである。それが失業に対する保障であり、疾病に対する保障であり、老齢や死亡に対する保障であるわけだ。[400-401]と、贈与と返礼の義務に根を持つ国家間を提示する。これはモースにとっての希望である。
第一に、わたしたちは「貴人の消費」という習いに再び戻りつつある。また、戻らなくてはならない。[404]
第二に、もっと配慮が必要なのは、一人ひとりの個人のことである。その人の生活、その人の健康、その人の教育、その人の家族、そしてその家族の行く末のことである。労働契約、不動産の賃貸借契約、生活必需品の売買契約においては、今以上に誠実さが必要であり、思いやりが必要であり、寛大さが必要である。[405]これは、同時に、
その一方で、個人は働かなくてはならない。人は他人を当てにするよりも、自分自身を頼みとするよう仕向けられる必要がある。[405]こういった、
アルカイックなものに、基礎的な原理に、部分的にであれ再び戻ることができる。また、戻らなくてはならない。[406]その戻る先は、エンゲルスの「原始共有社会」とも読める。
この全体的給付の体型は、わたしたちが現に確認しうるかぎりで、そしてまたわたしたちが想像しうるかぎりで、もっとも古い経済・法体系をなしている。これが基礎となって、その下地の上に交換=贈与の倫理が浮き彫りになってきたのである。[409]と。
しかし、モースは、集団・社会というものが、贈与によって生じたとみていて、
こうした贈与によってヒエラルキーが確立されるからである。与えるということ、それはみずからの優位を表明することである。[425]と見抜いているにもかかわらず、
贈与および無私無欲の概念と先に先行させた別の概念の考察へと進んでみよう。それは、利益の観念、個人による功利性の追求という観念である。[428]と、贈与を功利性の追求と対立させて見ている。しかし、これらは大きくは同じ領域に属することで、社会という単位で見た場合に生じる、部分的な濃淡にすぎない。
モースがいうように、贈与が社会を作り出したのは間違いないが、その社会の行き着いた先に、個人の功利性が発露しているのであって、それは社会というものが必然的に内包するものである。モース自身が、
わたしが本論で考察した事象はすべて、こういう表現を許していただけるなら、全体的な社会的事象である。[437]というように、モースの言う「全体」は「社会」にほかならない。その社会(=持続性のある集団)というものの成り立ちや性質について事例を集め、整理したものがこの贈与論である。
それは「全体」なのであり、社会システムの全体なのであって、それが機能するさまをわたしは記述しようと試みてきたわけである。[441]このモースの視界からは、
二つの人間集団が出くわした時、なしうることは次のいずれかでしかない。離れるかーー双方が不信感をあらわにし合うとか、挑発し合うといった場合には戦うかーー、さもなければ、つきあうか[448]としか見えない。贈与によって生まれた社会というものそのものを「持続性とヒエラルキーのある集団」としている以上、
本研究を閉じるに当たって見いだされるものがあるとすれば、それはしたがって以上のことである。社会が発展してきたのは、当の社会が、そしてその社会に含まれる諸々の下位集団が、さらにその社会を構成している個々人が、さまざまな社会関係を安定化させることができたからである。[450]とするのは、その社会関係の安定化そのものが「社会の発展」なのだからトートロジー(同意反復)と言える。
贈与というものが「有縁」の大きな要素であることを見出していた本書に対し、社会というものの枠組みとは別に、つまり社会の持つ「持続性」「ヒエラルキー」「安定」「関係」を断ち切るものとして「無縁」を人類の基底に据えた網野善彦の視界の凄みを改めて感じる。