【06】『贈与論』第3回レジュメ

2015/08/10 山根澪
3章 こうした諸原理の古代法および古代経済における残存
わたしたちが暮らしている社会というのは、物に関する諸法と人に関する諸法とをはっきり区別する社会である。(略)これに対して、わたしたちがこれまで考察してきた法システムにそのような区別は無縁である[302
『無縁・公界・楽』の一節「離婚をのぞむ女性が、門内に草履でも櫛でも、身につけたものを投げ入れたとたん、追っ手はその女性に手をかけることもできなくなるという寺法[20]」を思い込させる。

わたしたちの文明は、セム文明、ギリシャ文明、ローマ文明の昔から、債務や有償給付と、贈与とをはっきりと分別しているけれども、このようにいろいろと分別するというのは、大文明の法システムにおいても比較的新しいことではないだろうか。[303
「これはお金を貰いたい」とか「お金を渡されると変な感じがする」とか思ったり、迷ったりするのではっきりと分別できていないんじゃないだろうかと思うけれど、こうやって考えられること自体が分別なんだろうか。それとも、私たちはモースのいう「わたしたち」とは違ったシステムを持っているのか。

一 人の法と物の法(非常に古拙なローマ法)
ローマ市民法においては、財の引渡しは日常的なことでも世俗的なことでも単純なことでもなかった[312
もともとは、物それ自体が人格と能力を備えていたに違いない。[314
まず、それ(物)は家族の一部をなしている。ローマのファミリア(familia)(家族、僕婢、資産)は、人だけでなくレス()をも含んでいた。[314
・ファミリアとペクニア-ものの2つの種類
ファミリア
家に属するもの
奴隷、馬、ラバ、ロバ
譲渡には握手行為が必要
手中物
家に恒常的に存在しそれを成り立たせている財
ペクニア
そこ(家)から遠く離れた野に暮らす家畜郡
お金
握手行為不要
非手中物
家を通過するだけの一過性の財
私が持っている「誰かの」ものだったものを容易にその人から引き離して考えられない感覚、高向氏の骨董市などでものを買っても自分のものにならなかったという話を思い出すと、「物それ自体が人格と能力を備えていた」ということを割りと感覚的に持っているんだろう思う。これだけ、物の数が多くなり物にまつわる無名性が高くなってもこのように感じるのだから、ローマ法時代の感覚は今とはかなり違ったものなんだろう。

窃盗が招来する種々の行為や拘束は、明らかに物に備わった力に起因している。物は、それ自体のうちに「永遠の所有権(aeterna auctorias)」を蔵しているのだ。[319
無名契約(法典上に名称が規定されていない契約)のなかにも同じく要物契約とされているものがあり、とりわけ、売却とならんで契約それ自体の発端にあったとわたしが考えている無名契約、すなわち贈与と交換について、このこと(要物契約)が当てはまる。けれどもそれは当然であった。実際のところ、ローマ法においてはもとより、現代のわたしたちの諸法においてさえ、最古の法規範にはしたがわざるをえないのだ。贈与がおこなわれるためには物かサービスがなくてはならないということ、そして、その物やサービスは受け取り手に必ずや義務を追わせるということがそれである。[320-321
モースは、「最古の法規範にはしたがわざるをえない」といい、現代の私たちが参照する最古の規範として贈与、それに伴う返礼の義務をあげる。贈与は、「私のもの」を誰かあげるという認識、所有にもとづいているのだろう。一方、『無縁・公界・楽』で網野氏が『原始のかなたから生き続つづけてきた、「無縁」の原理、その世界の生命力はまさしく「雑草」のように強靭であり、また「幼な子の魂」の如く、永遠である。[263]』記したような、人間の原始からの力は「無所有」であるという視点と大きく異なるように思う。モースが提示したものは「最古の法規範」であり、網野氏が現そうとした『「共同体」の歴史に関わる「法則」』[331]とは視野がことなるかもしれないが、人間がそもそもどういう行動をとるかということに関して違った視界を持っているように思う。

二 古代ヒンドゥー法
バラモンは市場と一切のかかわりをもつことを拒絶する。それだけでなく、市場に由来すものは何一つ受け取ってはならない。国レベルの経済体制ができており、そこには都市があり、市場があって、貨幣が用いられているにもかかわらず、バラモンはインド・イラン共同時代(アーリア人のインドへの移住定着に先立つ時代)の古い牧畜民の経済と倫理に忠実なままである。そしてまた、大平野を耕す農耕民の経済と倫理に忠実なままである。[366
バラモンというこのカーストは、丸ごとその全体が贈り物をもらうことで生の糧を得ているにもかかわらず、まずは贈り物を拒絶する体を装うのである。次にこのカーストは、歩み寄りの姿勢を見せ、人が自発的に供したものであれば、拒まずに受け取ることにする。[367
贈与と、贈与者と贈与物とは、それぞれが相互的な関係にあるものとして把握するべき関係項であるということであり、それらの関係項は厳密かつ細心に把握しなくてはならないということであり、そうであるのは贈り物を送る仕方にも、それを受け取る仕方にも、いかなる瑕疵もないようにしなくてはならないから、ということである。すべてが作法にしたがっているのだ。市場とは違うのである。市場では、物にはある価格が定まっており、誰に対しても同じ中立的なありようをしていて、そういう物を手に入れるのだから。[370-371
バラモンという人たちが、ものすごくよく贈り贈られることの構造、その感情的な作用を把握しているように思う。NPOの団体に寄付をしたら何に使ったのか気になりがちなのに、神社のお賽銭はまったくそのようなことを思わない。NPOが全体には、求めているようにみえるのに対して、神社への賽銭は「自発的」にしたと思えるからか。 
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