【08】「日本の歴史をよみなおす」第4回レジュメ

2015年5月30日
作成:小林健司

■第二章 海から見た日本列島

また、稲作のひとつひとつの技術がバラバラに入ってきたのではなくて、体系的な技術がまとまって入ってきた、つまりそうした技術を持つ集団が移住してきたことは確実のようです。[277]
実際、この国家、「日本国」が確立すると、これまでとは、ようすがガラッと変わってきます。この国家の支配層が、とくに六世紀以降の中国大陸や朝鮮半島との交流を前提にして、初めて本格的な「文明」を体系的に日本列島に持ちこみます。中国大陸に成立した大帝国、唐の制度を本格的に導入したのです。[296]
稲作と律令国家の類似した流入の仕方。
ですから、弥生文化と縄文文化の差異、列島の東と西との差異は、日本列島の中だけで理解すべきものではなく、列島東部の場合は、北との関係を考慮に入れる必要があり、列島西部は朝鮮半島からの文化の流入を前提におく必要があると思います。[282]
これまでの日本文化論・日本社会論は、朝鮮半島、中国大陸から主として北九州を窓口として先進的な文化、技術が入ってきて、それが瀬戸内海から近畿に入り、西から「後進的」な東に広がっていったとされ、こうしたあり方が日本列島の社会のその後の歩みに決定的な影響をあたえたととらえられてきたのですが、この見方を徹底的に改める必要があると私は思います。北東アジアからサハリン・北海道を経て東北・関東へ、あるいは日本海を横断して北陸、山陰へという、西からの文化とは異質な北からの文化の流入路のあったことに注目する必要があり、この異質な東と西の交流の中で、社会・文化のあり方を総合的にとらえる必要があります。[283]
文化・民族としての違い。
それまでは、海上交通、下線の交通が中心だったのですが、この国家はそれを無視するように、強烈な意思で陸上の道に基本を置いた交通体系をつくるのです。[297]
この国家の当初の制度では、公的な交通はすべて陸の道というのが原則だったので、調、庸にしても、すべて百姓が食料自弁で都まで陸の道を運ぶことになっていますし、国司などの官人が都と任国とを往復する時にも、陸上の道を利用することになっていたのです。しかし、8世紀前半にはたちまちその例外が認められはじめ、八世期末になると、陸上の大道はだんだん荒れて、道の幅が狭くなり、部分的には使いものにならなくなってくることが、考古学の発掘によって確認されています。そして九世紀には、ふたたび海と川の交通が交通体系の主軸になる状況が生まれているようです。[302]
これまで、荘園、公領というと、われわれは土地、田畠の問題だけを考えてきたのですが、自らの立場を保つためにそれなりに必死だった当時の支配者、貴族や寺院や神社は、決して田畠のことだけを考えて所領を集めていたわけではありませんでした。もちろん、荘園の田畠に賦課されている年貢や公事、いろいろな特産物も、十分考慮に入れていますが、それだけではなく、津、泊、浦など、河海の交通、山野なども計算にいれ、総合的に考えて荘園を設定しているのです。[318]
途方も無いことを実際に実行に移し、形骸化さらにその状況も含んで形にする、揺れながら進む国。

尊爾の決算書のイメージ[340]
収入の部
支出の部
米・雑穀の売却代金
前納した各十貫文の月利六文の利子(夫銭)
鉄年貢の銭納された額
手形送進の手数料
市庭の公事銭
京都に送った二十貫、五十貫の手形の夫銭
桑代銭
祭りや弓の事の神事、正月の祝い酒宴の費用
反別五升の加徴米を五十文に換算した段別銭
国司が検注に来た時の接待費(酒、米、スルメ、大根、魚、ウサギや鳥などを市庭で購入)
このように、収入と支出の総額がぴたりと合うような決算書をつくるためには、かなり精密な帳簿が基礎台帳としてつくられなくてはなりません。そうした作業を重要世紀の頃の代官はみごとにこなしているわけです。[341]
金融、商業、経済の発達。管理されきらない余地を残し続ける列島の民。

網野善彦の歴史観に沿った簡単な年表

年代
時代区分
状況
紀元前
16500
3000
縄文時代
古代的な自然信仰を持ちながら、交易を行っていた(商業の発生)。木の繊維を使った衣類、編み物の袋、靴、石器以外にも高度な木器・漆器などを作っていた。巨大な木を何本も立てた遺跡が発見された。多様な生業に支えられ、広域的なつながりを持った社会。
紀元前3世紀頃
〜3世紀頃?
弥生時代

稲作、弥生土器をはじめ、畑作、青銅器、鉄器、養蚕、織物の技術、新しい土器製塩の技術などが、大陸から体系的な技術を持った集団の移住によって入ってくる。(古墳時代までを含めて数十万人から数百万人以上と考えられる。)30年くらいで九州から三重、福井まで広がる。文化の担い手は海に深い関わりがあり、航海技術を持った人々だったと考えられる。
注:東日本には弥生文化の伝播は200年ほど遅れ、紀元前1世紀くらいから入りはじめる。
  背景として東日本への北方からの文化の流入があり、別の文化圏をつくっていたともいえる。
3世紀〜5世紀
古墳時代の前期
騎馬民族(製鉄と馬)の渡来によって大きな影響。日本列島内外の物と人の交流(政治的な結びつきにともなう贈与・互酬)が海、川を通じて活発に。中央(ヤマト)との結びつきだけでなく、諸地域の間の独自な交易が、広域的に行われた。
7〜8世紀

「日本国」の成立。中国大陸や朝鮮半島との交流を前提にして、初めて本格的な「文明」が体系的に日本列島に持ち込まれる。中国大陸に成立した律令制度の導入。それまでの海上交通を無視した、直線的な道を基盤にした陸上交通を熱心につくる。農本主義での国家。東国はまだ異質な地域であり、気を使っていた。
9〜10世紀

陸上の大道は荒れ、水上交通が主軸になる。国家間の交流は間遠になり、それ以外の交流が表に出る。10世紀に平将門が東国国家をつくる。
11〜
12世紀

恒常的、安定的な廻船の交通を前提にして金融業者、商人のネットワークが稼動し、国家の徴税も担う。各地に都市ができてくる。
13世紀

交通上の拠点を押さえながら、荘園公領制という土地制度が確立し、貴族や寺社が独自の経済体系をつくりあげる。
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