2015年5月30日
作成:小林健司
■第5章 天皇と「日本」の国号
いわゆる平将門、藤原純友の乱で、純友は新羅の海賊とつながりを持っていたと思いますが、独自な国家まではつくりませんでした。しかし、将門の場合は、三ヶ月たらずではあれ、王朝の任命した国司を追いはらって新しい国家をつくり、将門自身は新しい天皇、「新皇」という称号を、八幡の神、菅原道真からあたえられるのです。そして、下総に都を置き、のこりの関東の七カ国に伊豆を加えた八カ国に、国司を任命して、東国国家を樹立します。東国はここで、京都の王朝の統治権からごく短期間であれ、完全に離脱したわけです。日本列島には決して一つの国家だけがあったのではなく、複数の国家があったことをこの事実がよく示しているといえましょう。[205]日本列島に複数の国家があったというとき、一つの国家だけがあったこととの違いとは?
さきほどもいったように、鎌倉時代から南北朝前期まで、王朝はその独自な法令を、公家新制という形で出しているのです。天皇家、公家もまだ少なくとも西国については実権を持っている。だからこそそうした天皇の統治権を、幕府が次第に奪っていくという経緯がたどれるので、その点も十分考慮しておく必要があると思います。このようにして、幕府に統治権をしだいに奪われ、「天皇職」の決定権も事実上、幕府の手中にはいってしまった十三世紀後半から、十四世紀にかけての天皇制は、非常な危機にさしかかったといってよいと思います。[209]戦国大名が有縁の世界を広げていったことに加えて、それ以前は天皇が統治権を持っていた。天皇家の統治とは無縁の原理に基づくものなのか?それとも天皇家の統治も有縁のものなのか?
〈続・日本の歴史をよみなおす〉
■第一章 日本の社会は農業社会か
村も同じで、これも群に語源のあることばですから、本来、農村の意味はないのです。にもかかわらず、厳密に実証的でなくてはならない歴史家、科学的な歴史学を強調している歴史家たちが、史料に現れる言葉を、使われている当時の意味にそくして解釈するという実証主義の原則、科学的歴史学の鉄則を忘れて、なぜ百姓という語をはじめから農民と思いこんで史料を読むというもっとも初歩的な誤りを犯し続けてきたのか。私も同様だったのですから決して偉そうなことはいえないのですが、これは非常に大きな問題で、簡単に解答を出し切ることは難しいのです。[258]著者の歴史に対する真摯な態度。周りの歴史かへの厳しい目線。「読む」ことの基本。
長屋王という、八世紀前半の政府の首班だった人が、百万町歩の田地の開墾を計画しています。考えてみると、この百万町歩という数字はおどろくべき数字で、中正になっても全国の水田は多分そこまでになっていないのと思うのですが、少なくとも政府は一年間、本気でこの計画を実行しようとしているのです。結局、無理なことがすぐに明らかになり、三世一身法に軌道修正が行われますが、この途方も無い開墾を計画した事実そのものが、この国家の水田にたいする思い入れが実に強烈であったことをよく物語っています。[259]途方も無い計画を本気で立ててしまう姿勢。NPO、現代の日本政府の姿勢と類似。
山根澪
第5章 天皇と「日本」の国号
■律令制を取り入れた当時の日本列島
まだまだ非常にやわらかな状況にあった日本列島の社会が、畿内の首長たちを中心に、それ自体、内発的、積極的に、この中国大陸のハードで合理的、文化的な律令制度を受け入れます。[185]
まだまだ未開な要素を残している日本列島の社会と、高度な文明の所産である中国大陸の律令制とのドッキングのしかた、これがじつはいろいろな形で列島の国家と社会を長く規定しているのですが、天皇の特異性もこのことと関係しています。[185]「やわらかな」と「ハード」、「未開」と「高度」などと対比されるものが結合されていく。ちぐはくで無理がありそうな結合に思えるが、天皇の二つの顔がこれを可能にする。
律令制度の上に確立した天皇のあり方を考えてみますと、そのひとつの顔は、律令制度の上に立ち、太政官という貴族の合議体の頂点に立つ天皇で、これが中国風の皇帝ともいえる側面であります。[193]
このように贄を捧げられる天皇は、神に準ぜられる存在ですから、(略)未開な社会を基盤にした国家にしばしば見られる「神聖王」というべき性格が、この制度にはっきりと示されているのではないかと思います。[194]
私はこれを天皇が律令風・中国風の皇帝の顔と、未開な社会に生まれる神聖王的な顔と、このふたつの顔を最初から持っていたと表現しておきたいと思います。[186]
「もっとも高度に発達した資本主義国であるであるにもかかわらず」「神の儀式が共存している」[183]日本。この天皇の側面を見ると日本の社会は「最初から」今まで未開と高度が混ざり合った社会だったようだ。
■「日本」も「日本人」もいなかったとはどういうことか
これも大変大事な点で、このとき(七世紀の後半)より前には「日本」も「日本人」も実在していないことをはっきりさせておく必要があります。[186]「日本」も「日本人」もいない、さらに持統以前の天皇もいなかった[185]とある。そのこと学校で自体は教わったことと違い、そうなのかとは思えるが、「大変大事」というところにまで腑に落ちない。
■日本での公の意義
年貢や課役は公に対する義務という意識があって、百姓一揆も、年貢そのものの廃棄は主張していないという問題があります。もちろんそれは公儀が「公」たりえないときには、それを拒否するという方向に進む思想を潜在させていますが、こうした公意識が将軍、大名の支配とともに、天皇を支えた構造を形作っていると思います。[217]「公に対する義務という意識」とはどういうものなのか。それが天皇を支えた構造を形作るとはどういうことか。
■過去の天皇の転換期、今の転換期
なぜ義満のときの義持、信長のあとの秀吉のような路線が、結局は選ばれてそれが最終的に定着していくのかが、天皇家の現在までの存続の理由を考える上での大きな問題だと思います。それは、前にもお話したように、一向宗やキリスト教が世俗権力に弾圧され、日本の社会に一神教的な宗教が根付かなかったということともかかわりのある問題で、自然信仰ともいえる神をいまももちつづけている日本人の心性をまで含めた検討が、どうしてもわれわれにとって必要ではないかと思います。[214]
現代は社会構成史的にも、また民族史的、文明史的にも、大きな転換期にはいっていることになるので、天皇も否応なしにこの転換期に直面していることになります。おそらくこの二つの転換期を超える過程で日本人の意思によって、天皇が消える条件は、そう遠からず生まれるといってよいと思います。[221]天皇が消える条件はそう遠からず生まれるというびっくりする文章。しかし、過去になぜそれが起こらなかったかがより気になってくる。
■今の転換期を捉える
今後の天皇の問題を考えるということは、われわれ自身がいかに現代社会を考えるかという問題と当然不可分のことです。それは現代を歴史的な区分のなかでどこに位置づけるかということですが、社会構成史的な次元での区分(略)の中で、現代を明治以降の近代の連続と考えるか、戦後に新しく出発した、近代社会とは異なる現代社会と位置づけるかによって、当然、現代に対する認識は大きく変ってくるわけです。[219]歴史的な区分については他のゼミで読んだ『日本・現代・美術』(椹木野衣著)にも、戦後と戦中の間の線引に対して疑問が投げかけられていたのを思い出す。自分を戦後の人間と位置づけ、それ以前の連続性を断ち切って考えていては見えないものが見えてくるように思う。
第1章 日本の社会は農業社会か
■日本の社会に関しての思い込み
学者によってはこれ(時国家)を、家父長的な大農奴主経営などと規定してきたのです。[238]百姓は農民ではないというのは本書や網野善彦の他の著書により知識としては持っていた。農村ではないとわかりながら、実態としてどういったものが分からずにいたが、時国の事例や本書前半部分で具体的な仕事を知ることで少し色鮮やかになりつつある。
起業家的な精神をもって多角的な経営をやっている家、多角的起業家といっています。これが時国家、上下両家の実態だったのです。[242]
輪島の頭振(水呑)の中には、土地を持てない人ではなくて、土地を持つ必要のない人がたくさんいたことは明白といってよいのです。とすると、百姓を農民、水呑を貧農と思い込んだために、われわれはこれまで深刻な誤りをおかしてきたことになります。[249]
これまでの歴史研究家は百姓を農民と思い込んで資料を読んでいましたので、歴史家が世の中に提供していた歴史像が、非常にゆがんだものになってしまっていたことは疑いありません。[255]
これまで、村は百姓によって構成されており、百姓は農民であるから村は農村であるという一種の等式ができていて、村というとすぐ農村を思い浮かべるのが日本人の常識になってしまっているのですが、この思い込みはすべて捨て去って社会の実態を考えなくてはならないのです。[256]
山がちで土地が少なく、田畑がひらけないから貧しいところだと奥能登の方々自身がそういわれるので、われわれもそう思っていました。[249]外からそう言われるだけでなく、今ではそこに住む人びとも稲作ができないからを貧しいと思うのが不思議。また、土地をもっていると裕福という思い込みと、農業は厳しい労働の割に収入がそんなに多くないという相反する思い込みが同時に自分にはあったように思う。
私の郷里山梨県は、水田の少ない山国で、非農業的な地域です。ですから甲州人も自らを貧しいとおもっているのですが、その反面、山梨は甲州商人、甲州財閥で有名でもあったのです。[254]
■国家にとって望ましいことと残された文書
土地に租税を課している以上、百姓が農民であってほしいのは、国家のきわめて強い意志であり、国家にとってもそれがもっとも望ましい事態だったことを考えておく必要があると思います。[264]現代においては収入に課税する以上国民にはサラリーマンであって欲しいという国家の意思というのはあるのかもしれない。
蔵に伝わった文書だけを見ていると、友之介は時国家の貧しい下人、小作人とみえるのですが、麩下張り文書の世界の友之介は、千両の取引を自分の判断でやることのできる北前船の大船頭になるわけです。選択されて蔵に伝わった文書の世界と、廃棄された文書の世界の間にはそのくらいの大きな違いがあるのです。[266]ここも現代と重ねてかんがえてしまう。行政文書だけ見ると、私はどのように見えるのか。非常に貧しいと言われるような気がするが、単にそう言われたくない、何か自分で残したいような気持ちになる。
■コメント(山根)
・ゼミで話をしていて、ささいな違いはあっても大きくはメンバーと同じような日本の歴史のイメージを共有していたことを実感した。本書を通して歴史をよみなおした後となっては、間違った歴史をこれだけ共有しているのかと思うとびっくりする。
・日本列島とい島々は単一の日本民族がずっと暮らしてきた、ひとつ変化しない境界線を持ったものように見えていた。しかし実際には、世界史の資料集にあった「〇〇帝国と〇〇帝国の勢力図」のような状況が日本にもあったんだろうと想像するようになる。蝦夷、琉球、畿内の首長たちの国々、平将門の作った東国や日本など様々な国家が、時代によって日本列島の陸地や海域を含めて様々な境界線を描いたんだろう。