山根澪
あれだけ濃密に読み、話し、聞いた2日間の時間は、ひとつの塊となって思い出された。一つひとつの話の内容ではなく、レポートを書こうとぱっと頭に浮かんだのが、「あの2日間」「あの3セッション」の場の雰囲気だ。それは『モモ』でいえば、「3章 暴風雨ごっこと、ほんものの夕立」のシーンようで、子どもたちが船に乗り、大海原、そして嵐の中を<さまよえる台風>の原因をつきとめようと進んだように、私たちはエンデが『モモ』で何を現そうとしたのかを探る航海をしていたようだった。「乗組員はいずれもその分野での信頼にたる専門家」[34]だ。もう1度ゼミで読みたいと私は言ったが、この本は航海したい場所として私の中にあり、まだまだ考えている最中だ。
今回読んでいて不思議に思ったのが読み進めるにつれ、灰色の男たちに対して持っていた単に嫌な悪者といったイメージが薄くなり、人間らしく親近感さえ感じたことだ。最初にモモと接触した灰色の男は、人間と同じようにモモと話をするうちに自分たちのほんとうのことを話している。自分たちの生きる糧である時間を得るために必死で働くところなども、全く理解できないわけではない。更に、「やつらが生まれてくるのをたすけたのは、人間じしんなのだから。」[322]というマイスター・ホラの言葉は、やつらの誕生に自分が関与しているのかと思うと、ぐっと私と灰色の男たちとの距離が縮まる感じがあった。「おれはいったい生きていてなんになった?」[76]。フージー氏がふとそんなことを思ったとき、今の生活をなんとなく嘆いて漠然と今とは違う生活を思い描いたとき、まさにそんなときに灰色の男たちは生まれてくるのを助けているのかもしれない。
灰色の男たちは、理解不能で害のある生き物ではない。人間が望んで生まれ、人間がよく分かる論理を使う。だから彼らの説得により強烈に望まない方向へ押し流されそうになる。そこまで考えて思い出したのが小林氏がレジュメに引いた「それじゃ、あんたのことを好いてくれるひとは、ひとりもいないの?」[128]という言葉だった。モモが灰色の男の説得の最中に放った言葉だ。さらに、レジュメでは「なんで、どこから、この質問が出てくるのか、まったくわからない。」と小林氏の感想が続き、またゼミでもこの部分は話題になった。モモはこの言葉で説得の流れから飛び出した。
あの言葉はモモがモモであるために発せられた必死の言葉だったんだろう。灰色の男たちへ感じたのちょっとした親近感は、彼らの説得に流されそうになる自分への親近感だったのかもしれない。そして、私だったらいったいどんな言葉を発するのだろうか。